「寝たまんまヨガ」という睡眠用アプリがあって、とても良く眠れるらしいとネットのコラムで読んだ。早速、ダウンロードして使用してみると、噂通り、すぐに眠りに落ちた。
気に入って数日ほどは帰宅して寝支度を整えると、ベッドに潜り込んでからイヤホンを耳に嵌めて、ガイダンスにしたがって身体を縮めたり伸ばしたりした。
全身の筋肉がほぐれて気分もリラックスし、快眠することが出来た。
そんな中、三日目あたりに淫夢を見た。
詳細までは記憶していないが、テレビで見るモデルか芸能人の女を相手にソファの上で前戯を楽しんでいるといった内容だった。
目覚めてからも強い印象が残った。普段は、そうした夢をあまり見ないからである。
全く見ないわけでもないが、あまり良い思いが出来た例がない。きれいな女性といい雰囲気になったとしても、大抵は妙な邪魔が入ったり、あるいは訳の分からない方向へとストーリーが展開したりで、ハッピーエンドというか幸福感を覚えて目覚めることは少ない。
ところが、その三日目の夢は事の最中で目覚めてはしまったたものの、とても満たされた気分になっていた。現実では縁のないほど美しい女と、わずかではあるが濃密で淫らな時間を過ごせたのだ。
再び同じ夢の中へと戻りたくて、目を閉じて二度寝にチャレンジしたほどだった。
無情にも、再び同じ場面に戻れはしなかった。
そこで、ふと思い至った。
自分の見る夢をコントロール出来たら、さぞ楽しいのではないか。
大方の人々は変化に乏しい、つまりは大して喜ばしい出来事もないまま日常を繰り返している。性的な面においても充実している人は、おそらくさほど多くない。
仮にパートナーに恵まれて一時的に満足した性生活を送っていても、長続きはしないものだ。どんな相手であれ、毎日、同じことを繰り返していれば飽きる。終いには相手の裸体を見ても興奮を覚えなくなる。
毎日、とっかえひっかえ、異なる相手とお楽しみに興じることが出来る人種なんて稀にしか存在しない。
どこかの大金持ちか王族、あるいはスーパースター。そんな人でさえ、決まったパートナーの存在があれば何らかの制約は受けるだろう。
ただし、夢の中でなら話は別だ。
誰にも干渉されず、好ましい相手と、本能むき出しで、世間体など気にせずに、とことん破廉恥な世界へと没入できる。
所詮は夢の中の出来事であり虚しいだけだと捉える人もいるだろう。でも、冴えない日常をリピートするだけの人生で、夢の中くらいはバラ色の瞬間を過ごしてみたいと思う人も少なくないはずだ。
俺は出勤すると、淫夢を見るに至った顛末を同僚のNに話した。そして、こう付け加えた。
「で、そのアプリをパクってさ。つまりヨガ的な睡眠導入部を流用しつつ、その後のナレーションでエロい夢を見るように仕向けられたら面白いと思うんだよね。エッチなドリームメーカーつうかさ、『淫夢製造機』的なアプリを開発するのって、どうよ?」
「それ、面白いですね。やりましょうよ!」
Nは少し興奮した面持ちで賛同した。
「じゃやるか、一緒に」
俺は一人でアプリ制作などするつもりはなかった。アイデアはあっても、それを具現化する能力がないからだ。ただ、Nとなら組んでもいいように思えた。Nは行動力もあるし、PCの知識や扱いも俺よりはずっと長けている。留学経験があるため英語も使える。
そんな会話が引き金となってアプリ制作の実態を調べていくと、仮に完成させてストアに並べたところで大ヒットでも飛ばさない限り、さして儲からないことが分かった。それに、アプリを申請するためにはPCがマックでなければならないことも知った。
そこで現在は離職しているが、かつて同じチームで働いていたKを巻き込むことにした。KはマックのPCを持っている。さらに、音楽の専門学校を出ているのでBGMも作れそうだった。
これでアプリ制作に向けてのマンパワーは揃った。Nは今でもKと連絡を取り合っているようなので、全員が都合のいい日時を調整し、一度顔を合わせてみることにした。
待ち合わせ場所には秋葉原を選んだ。
日曜日の昼に昭和通り口の改札で待ち合わせた。最初に到着した俺はタバコを吸おうと公園前の喫煙スペースに向かったが、小さな公園だった場所は何かの工事でバリケードに囲われており、二台ほどあった大型の灰皿も撤去されていた。灰皿がないどころか、喫煙スペースごと消えていた。
だが、その名残なのだろう、公園を囲むバリケード沿いに多くの人たちが立ったままでタバコを吸っていた。
路上で歩きタバコをすれば罰金を取られる。ビルの中にある喫煙スペースを探すか、あるいは「喫煙可」の店を探して入らないことにはタバコが吸えない。おまけに近々、またタバコの値段が上がるようだし、愛煙家にとっては非常に住み辛い世の中になっている。
久しぶりに顔を合わせたKと改札前で立ち話をしているところに遅れてNが現れ、三人で人出の多い街中を歩いた。
特別な用事でもない限り、秋葉原を歩くことなんて滅多にない。
「オタクの聖地」、あるいは「クール・ジャパン」を象徴する街と呼ぶべきか。とにかく秋葉原には人が多過ぎて辟易した。
食事が出来る店を探した。条件は「タバコが吸えて酒が飲め、軽食も出来る店」である。そんな店、無数にあるように思えたが、実際にはなかなか要望に適うのが見つからなかった。
ビルの飲食フロア全体で喫煙時間帯が決められいて運悪くその時間外だったり、あるいは吸える店が満席だったりで、俺たちは右往左往しながら、ようやく席に座れたのは小さなスペイン料理店だった。
Nはビールを、俺とKでピッチャーに入ったサングリアを頼んだ。
赤ワインの中に数種のカットしたフルーツを入れ、それをすりこぎのような棒で潰して飲むその店のサングリアは、俺が以前に旅行先のスペインで飲んだ物とはまるで異なる、ひどく甘ったるいジュースのような代物だった。
また、つまみにオーダーした鶏料理もチープな味付けで美味くなかった。空いているのには理由があるのだ。
食事しながら俺はKにアプリ開発を思いついてから今日までの経緯を一通り語った。睡眠アプリを試して快眠し、数日後に淫夢を見てアイデアを思いつき、Nに話してアプリ制作に挑戦することにした。開発にはマックが必須であり、また音源制作技術があることを見込んでKをプロジェクトに誘うことを決めた。
だが、そこまでの話はすでにNから聞いているようだった。俺はさらに、完成した無料アプリをストアからDLしてもらっても、収入は1DLにつき一円程度であること、つまり仮に上手くいって10万DLされたところで十万円ほどにしかならないことも付け加えた。それを三人で割るのだから、一人当たり三万円弱にしかならない。ビジネスというよりは遊びと考えてもらった上で、参加するか否かを決めてくれと話したが、Kは「いいですよ。やりましょう」と快諾してくれた。 ここでネットで調べたアプリ制作の手順を説明する。
まずはアプリケーションの開発、プログラムを行い、完成したソフトをアップルに申請して許可を受ける。その審査に数ヶ月かかることもあるようだが、許可が下りればすぐにリリースとなる。これらの作業はマックのPCからでしか行えない。
アプリ公開にかかる費用は一万円弱の申請料のみ。ただし、ゲームなど複雑なプログラムを要する場合には当然のことながら開発やプログラムに莫大なコストが掛かり、サーバーだって必要になってくる。
しかし、我々の目論んでいるアプリは「音声ガイダンスのみ」の実に簡素なものだ。だからこそ、IT関連に疎い素人でも出来そうな気がした。
まずはサンプルとなる音源作りから取り掛からねばならない。
これにはガイダンスの基であるシナリオ、それを読む声優のナレーション、そしてリラクゼーションも兼ねてBGMとして流す音楽の三つが骨子となる。
秋葉原で待ち合わせたのには目的があった。「声優カフェ」である。
メイド喫茶のような感じで、声優を目指す女の子たちが働く店が存在することはネット検索して知っていた。もちろん、足を運んだことは一度もない。元来、メイド服を着た女の子になど興味のかけらもない。そんな店で金を遣うくらいならピンサロで一本抜いてもらった方がなんぼかマシだ。
求めているのは、審査に引っかからない程度のセクシーな声色で利用者を淫夢へと導く夢先案内人である。プロに頼めば高くつきそうなので、見習いあたりで安く上げようという腹積もりだ。
我々の周囲にいる女の子を使ってもいいが、やはり演技力に差が出るだろうし、性的なニュアンスを含んだ声色を出すのには照れや抵抗もあるだろう。こちらとしても頼みづらい。
そこで、やはり仕事として割り切ってもらえる声優の方が望ましいと踏んだ。
食事を終えてスペイン料理店を出た我々は声優カフェを探した。
街頭に立つコスプレをした女の子らに訊きながら、ようやく見つけた店舗は細長い雑居ビルの8Fにあった。エレベーターで上がる。各フロアに一室しかない建物だ。
8Fで降り、目前の無機質な金属製の扉を開けた。
扉の向こうはすぐに部屋になっていて、室内に居た数人が一斉に我々の方へと顔を向けた。
ソファに座る者、あるいはテーブルを挟んで向き合っている人々はカフェでくつろいでいる様子ではなく、どこかミーティングのような堅苦しい雰囲気を漂わせていた。何よりメイド服を着た女の子が見当たらない。
「あの、営業中ですか?」
真ん中のソファに座る男性に問うと「ごめんなさい。今日は貸切で」との返事だった。
「そうですか。分かりました」
我々は再びエレベーターで下まで降りて、通りへと出た。ようやく春めいてきたが、頬を撫ぜる風はまだ冷たい。
「どこかタバコの吸えるカフェにでも入りましょうよ」
Kの提案で再び駅の方へと戻ることにした。
「しかし、あらためて観察すると本当に色んな人種がいるよね」
混雑する人波を歩きながら、俺は感じたままを口にした。
この街に足を運ぶ人々は、おそらく漠然と遊びに来ているわけではない。同じような人出や混雑であっても、休日のショッピングモールとは違うように思う。
アニメ、ゲーム、アイドル、PC関連など、個人的に何らかの特別な思い入れを求めて集まってきている。
アニメのキャラクターが描かれた大きな紙袋を肩から提げ、嬉々としている白人男性グループなどを見ていると、自分の知らない世界の大きさや広がりを感じた。
新しいゲームソフトの販売に長蛇の列を作る人々。その大半が女性であったりするのを見ると、一体何のゲームを欲しているのかを知りたいのと同時に、女性がゲームをすること自体になじみのない俺には驚きでもある。
「あれ、何の行列なんだろうね?」
「何なんでしょうね」
アキバ系文化に疎い我々には、列を作る人々の目的が何であるか、見当もつかなかった。
散歩がてらに喫茶店を探してずいぶんと歩いたため、さすがに疲れてきた。
駅の反対側、昭和通りを渡った先の、JR浅草橋駅方面ならば空いている店があるように思えたが、線路沿いの通りにはビジネスホテルやオフィスビルばかりが並び、せいぜい開店前の居酒屋があるくらいで、コーヒーが飲めそうな店は見当たらない。
きょろきょろと辺りを見回して歩いていると「声優の卵たち」という看板が目に入った。
「あ、こんなところにも声優カフェがあるよ」
Nが声を上げた。
「入ってみようか」
俺はそのビルの階段を上がって店の扉に手を掛けた。
しかし、鍵が掛かっていた。
「5時からって書いてありますよ」
看板を眺めていたKの声が背中越しに聴こえた。
「ダメじゃん」
仕方なく階段を下り、俺たちは再び駅の方へと引き返した。
駅前まで戻り、周辺のカフェを訪ねたものの、どこも混んでいて座れる場所がなかった。昔ながらの喫茶店「ルノアール」でさえも満席だった。
数軒ほど巡り、ようやく古びたビル2階にあるイタリア料理店に空席を見つけて腰を下ろせた。
「どうする、これから」
「とりあえず一息入れて時間を潰してから、さっきの声優の店に行ってみようよ」
「そうしますか」
せっかく休日に三人で集まった成果として、何らかの収穫が欲しかった。
世間話をしながら時を遣り過し、5時を回ったところで店を出て、俺たちは「声優の卵たち」へと向かった。
気に入って数日ほどは帰宅して寝支度を整えると、ベッドに潜り込んでからイヤホンを耳に嵌めて、ガイダンスにしたがって身体を縮めたり伸ばしたりした。
全身の筋肉がほぐれて気分もリラックスし、快眠することが出来た。
そんな中、三日目あたりに淫夢を見た。
詳細までは記憶していないが、テレビで見るモデルか芸能人の女を相手にソファの上で前戯を楽しんでいるといった内容だった。
目覚めてからも強い印象が残った。普段は、そうした夢をあまり見ないからである。
全く見ないわけでもないが、あまり良い思いが出来た例がない。きれいな女性といい雰囲気になったとしても、大抵は妙な邪魔が入ったり、あるいは訳の分からない方向へとストーリーが展開したりで、ハッピーエンドというか幸福感を覚えて目覚めることは少ない。
ところが、その三日目の夢は事の最中で目覚めてはしまったたものの、とても満たされた気分になっていた。現実では縁のないほど美しい女と、わずかではあるが濃密で淫らな時間を過ごせたのだ。
再び同じ夢の中へと戻りたくて、目を閉じて二度寝にチャレンジしたほどだった。
無情にも、再び同じ場面に戻れはしなかった。
そこで、ふと思い至った。
自分の見る夢をコントロール出来たら、さぞ楽しいのではないか。
大方の人々は変化に乏しい、つまりは大して喜ばしい出来事もないまま日常を繰り返している。性的な面においても充実している人は、おそらくさほど多くない。
仮にパートナーに恵まれて一時的に満足した性生活を送っていても、長続きはしないものだ。どんな相手であれ、毎日、同じことを繰り返していれば飽きる。終いには相手の裸体を見ても興奮を覚えなくなる。
毎日、とっかえひっかえ、異なる相手とお楽しみに興じることが出来る人種なんて稀にしか存在しない。
どこかの大金持ちか王族、あるいはスーパースター。そんな人でさえ、決まったパートナーの存在があれば何らかの制約は受けるだろう。
ただし、夢の中でなら話は別だ。
誰にも干渉されず、好ましい相手と、本能むき出しで、世間体など気にせずに、とことん破廉恥な世界へと没入できる。
所詮は夢の中の出来事であり虚しいだけだと捉える人もいるだろう。でも、冴えない日常をリピートするだけの人生で、夢の中くらいはバラ色の瞬間を過ごしてみたいと思う人も少なくないはずだ。
俺は出勤すると、淫夢を見るに至った顛末を同僚のNに話した。そして、こう付け加えた。
「で、そのアプリをパクってさ。つまりヨガ的な睡眠導入部を流用しつつ、その後のナレーションでエロい夢を見るように仕向けられたら面白いと思うんだよね。エッチなドリームメーカーつうかさ、『淫夢製造機』的なアプリを開発するのって、どうよ?」
「それ、面白いですね。やりましょうよ!」
Nは少し興奮した面持ちで賛同した。
「じゃやるか、一緒に」
俺は一人でアプリ制作などするつもりはなかった。アイデアはあっても、それを具現化する能力がないからだ。ただ、Nとなら組んでもいいように思えた。Nは行動力もあるし、PCの知識や扱いも俺よりはずっと長けている。留学経験があるため英語も使える。
そんな会話が引き金となってアプリ制作の実態を調べていくと、仮に完成させてストアに並べたところで大ヒットでも飛ばさない限り、さして儲からないことが分かった。それに、アプリを申請するためにはPCがマックでなければならないことも知った。
そこで現在は離職しているが、かつて同じチームで働いていたKを巻き込むことにした。KはマックのPCを持っている。さらに、音楽の専門学校を出ているのでBGMも作れそうだった。
これでアプリ制作に向けてのマンパワーは揃った。Nは今でもKと連絡を取り合っているようなので、全員が都合のいい日時を調整し、一度顔を合わせてみることにした。
待ち合わせ場所には秋葉原を選んだ。
日曜日の昼に昭和通り口の改札で待ち合わせた。最初に到着した俺はタバコを吸おうと公園前の喫煙スペースに向かったが、小さな公園だった場所は何かの工事でバリケードに囲われており、二台ほどあった大型の灰皿も撤去されていた。灰皿がないどころか、喫煙スペースごと消えていた。
だが、その名残なのだろう、公園を囲むバリケード沿いに多くの人たちが立ったままでタバコを吸っていた。
路上で歩きタバコをすれば罰金を取られる。ビルの中にある喫煙スペースを探すか、あるいは「喫煙可」の店を探して入らないことにはタバコが吸えない。おまけに近々、またタバコの値段が上がるようだし、愛煙家にとっては非常に住み辛い世の中になっている。
久しぶりに顔を合わせたKと改札前で立ち話をしているところに遅れてNが現れ、三人で人出の多い街中を歩いた。
特別な用事でもない限り、秋葉原を歩くことなんて滅多にない。
「オタクの聖地」、あるいは「クール・ジャパン」を象徴する街と呼ぶべきか。とにかく秋葉原には人が多過ぎて辟易した。
食事が出来る店を探した。条件は「タバコが吸えて酒が飲め、軽食も出来る店」である。そんな店、無数にあるように思えたが、実際にはなかなか要望に適うのが見つからなかった。
ビルの飲食フロア全体で喫煙時間帯が決められいて運悪くその時間外だったり、あるいは吸える店が満席だったりで、俺たちは右往左往しながら、ようやく席に座れたのは小さなスペイン料理店だった。
Nはビールを、俺とKでピッチャーに入ったサングリアを頼んだ。
赤ワインの中に数種のカットしたフルーツを入れ、それをすりこぎのような棒で潰して飲むその店のサングリアは、俺が以前に旅行先のスペインで飲んだ物とはまるで異なる、ひどく甘ったるいジュースのような代物だった。
また、つまみにオーダーした鶏料理もチープな味付けで美味くなかった。空いているのには理由があるのだ。
食事しながら俺はKにアプリ開発を思いついてから今日までの経緯を一通り語った。睡眠アプリを試して快眠し、数日後に淫夢を見てアイデアを思いつき、Nに話してアプリ制作に挑戦することにした。開発にはマックが必須であり、また音源制作技術があることを見込んでKをプロジェクトに誘うことを決めた。
だが、そこまでの話はすでにNから聞いているようだった。俺はさらに、完成した無料アプリをストアからDLしてもらっても、収入は1DLにつき一円程度であること、つまり仮に上手くいって10万DLされたところで十万円ほどにしかならないことも付け加えた。それを三人で割るのだから、一人当たり三万円弱にしかならない。ビジネスというよりは遊びと考えてもらった上で、参加するか否かを決めてくれと話したが、Kは「いいですよ。やりましょう」と快諾してくれた。 ここでネットで調べたアプリ制作の手順を説明する。
まずはアプリケーションの開発、プログラムを行い、完成したソフトをアップルに申請して許可を受ける。その審査に数ヶ月かかることもあるようだが、許可が下りればすぐにリリースとなる。これらの作業はマックのPCからでしか行えない。
アプリ公開にかかる費用は一万円弱の申請料のみ。ただし、ゲームなど複雑なプログラムを要する場合には当然のことながら開発やプログラムに莫大なコストが掛かり、サーバーだって必要になってくる。
しかし、我々の目論んでいるアプリは「音声ガイダンスのみ」の実に簡素なものだ。だからこそ、IT関連に疎い素人でも出来そうな気がした。
まずはサンプルとなる音源作りから取り掛からねばならない。
これにはガイダンスの基であるシナリオ、それを読む声優のナレーション、そしてリラクゼーションも兼ねてBGMとして流す音楽の三つが骨子となる。
秋葉原で待ち合わせたのには目的があった。「声優カフェ」である。
メイド喫茶のような感じで、声優を目指す女の子たちが働く店が存在することはネット検索して知っていた。もちろん、足を運んだことは一度もない。元来、メイド服を着た女の子になど興味のかけらもない。そんな店で金を遣うくらいならピンサロで一本抜いてもらった方がなんぼかマシだ。
求めているのは、審査に引っかからない程度のセクシーな声色で利用者を淫夢へと導く夢先案内人である。プロに頼めば高くつきそうなので、見習いあたりで安く上げようという腹積もりだ。
我々の周囲にいる女の子を使ってもいいが、やはり演技力に差が出るだろうし、性的なニュアンスを含んだ声色を出すのには照れや抵抗もあるだろう。こちらとしても頼みづらい。
そこで、やはり仕事として割り切ってもらえる声優の方が望ましいと踏んだ。
食事を終えてスペイン料理店を出た我々は声優カフェを探した。
街頭に立つコスプレをした女の子らに訊きながら、ようやく見つけた店舗は細長い雑居ビルの8Fにあった。エレベーターで上がる。各フロアに一室しかない建物だ。
8Fで降り、目前の無機質な金属製の扉を開けた。
扉の向こうはすぐに部屋になっていて、室内に居た数人が一斉に我々の方へと顔を向けた。
ソファに座る者、あるいはテーブルを挟んで向き合っている人々はカフェでくつろいでいる様子ではなく、どこかミーティングのような堅苦しい雰囲気を漂わせていた。何よりメイド服を着た女の子が見当たらない。
「あの、営業中ですか?」
真ん中のソファに座る男性に問うと「ごめんなさい。今日は貸切で」との返事だった。
「そうですか。分かりました」
我々は再びエレベーターで下まで降りて、通りへと出た。ようやく春めいてきたが、頬を撫ぜる風はまだ冷たい。
「どこかタバコの吸えるカフェにでも入りましょうよ」
Kの提案で再び駅の方へと戻ることにした。
「しかし、あらためて観察すると本当に色んな人種がいるよね」
混雑する人波を歩きながら、俺は感じたままを口にした。
この街に足を運ぶ人々は、おそらく漠然と遊びに来ているわけではない。同じような人出や混雑であっても、休日のショッピングモールとは違うように思う。
アニメ、ゲーム、アイドル、PC関連など、個人的に何らかの特別な思い入れを求めて集まってきている。
アニメのキャラクターが描かれた大きな紙袋を肩から提げ、嬉々としている白人男性グループなどを見ていると、自分の知らない世界の大きさや広がりを感じた。
新しいゲームソフトの販売に長蛇の列を作る人々。その大半が女性であったりするのを見ると、一体何のゲームを欲しているのかを知りたいのと同時に、女性がゲームをすること自体になじみのない俺には驚きでもある。
「あれ、何の行列なんだろうね?」
「何なんでしょうね」
アキバ系文化に疎い我々には、列を作る人々の目的が何であるか、見当もつかなかった。
散歩がてらに喫茶店を探してずいぶんと歩いたため、さすがに疲れてきた。
駅の反対側、昭和通りを渡った先の、JR浅草橋駅方面ならば空いている店があるように思えたが、線路沿いの通りにはビジネスホテルやオフィスビルばかりが並び、せいぜい開店前の居酒屋があるくらいで、コーヒーが飲めそうな店は見当たらない。
きょろきょろと辺りを見回して歩いていると「声優の卵たち」という看板が目に入った。
「あ、こんなところにも声優カフェがあるよ」
Nが声を上げた。
「入ってみようか」
俺はそのビルの階段を上がって店の扉に手を掛けた。
しかし、鍵が掛かっていた。
「5時からって書いてありますよ」
看板を眺めていたKの声が背中越しに聴こえた。
「ダメじゃん」
仕方なく階段を下り、俺たちは再び駅の方へと引き返した。
駅前まで戻り、周辺のカフェを訪ねたものの、どこも混んでいて座れる場所がなかった。昔ながらの喫茶店「ルノアール」でさえも満席だった。
数軒ほど巡り、ようやく古びたビル2階にあるイタリア料理店に空席を見つけて腰を下ろせた。
「どうする、これから」
「とりあえず一息入れて時間を潰してから、さっきの声優の店に行ってみようよ」
「そうしますか」
せっかく休日に三人で集まった成果として、何らかの収穫が欲しかった。
世間話をしながら時を遣り過し、5時を回ったところで店を出て、俺たちは「声優の卵たち」へと向かった。