他の先生も集まってきて、生徒も増えている。「とにかく中に入れよう」ということになり皆を靴下のまま教室へ押し込んだ。
 先生達は講師室へ。塾長に電話したが、使われていなかった。家は誰も知らない。
「全部、持って行かれたってことか」
 誰かが言った。その通りだ。給料は十日払いだから先月分の給料を貰っていない。生徒達の塾費は月末までに来月分の支払いだから払い込まれているはず。
「どうしちゃったんだろう」
 僕が言うと、女子大生は壁を握り拳でこつこつ殴りながら言った。
「お金が欲しかったんでしょ。どうしてくれるのよ。年末にお金使い過ぎちゃって、給料がないと、生きてけない」
「それよりも、生徒だよ」
理科担当の、後輩が言った。  
そうなんだ。何もない部屋で待機している彼らをどうするか。
 その時だ。階段を駆け上る音がする。そしてドアが開く。近所に住む生徒の母親だった。
「家に、今、年賀状、来ました」
「年賀状?」
「ここの塾長、から」
 母親の差し出す葉書をみんなでのぞき込んだ。
「あけましておめでとうございます。この度『行進ゼミナール』を閉めることになりましたこと、深くお詫び申し上げます。他塾への転塾をお勧めします」
 その後、近所の塾や大手予備校の住所と電話番号が書いてあった。
「どうなってんだよ」
 そう言った後輩は、葉書を見ながら続けた。
「ちょっと待って。この年賀状が生徒の家に今日届くとなると、パニックに、ならないか」
「えー、困る。親に責められても、私分からないから」

 見上げた。そう、それは看板。昨年まで「行進ゼミナール」とあり小さく「生徒募集中(随時)」とあった看板が、無いのだ。その代わりに「テナント募集中」とあり、その下に不動産の連絡先が書いてあった。
「どういう、こと?」
 こうしている間にも生徒が集まってくる。ドアを引いたがカギがしてある。
「ちょっと待って。開けるから」
 最後になることが多いのでカギを持たされていた僕は、いつもとは反対方向にカギを回し、ドアを開けた。
「先に、見てくるから。もう少しそこにいて」
 生徒をなだめ、ドアを閉める。
 下駄箱はある。しかし、並んであるはずのスリッパも、脇にあった籠も、その中に入っていたお客様用スリッパもない。階段を上がり、講師室へ。「講師室」の札はまだあったが、中に入ると約一週間前までそこにあったはずの、机、本棚、本、テキスト、プリント……。すべて無くなっていた。がらんどう。白い四方の壁と、ホワイトクリームの床に黒く引きずった後が数カ所。紙切れカスも、ない。三階も同じようなものだった。長机も椅子も、ホワイトボードも無かった。
「やられた……」
 外に出ると女子大生の彼女が叫んだ。
「どういうことですか。今あの不動産に電話しましたけど、去年の十二月に契約が切れたって言ってました」
「部屋の中、何もないよ」
 そういうと、彼女は「給料は、どうなっちゃうのよ」と言って、中に勝手に入っていった。

 年が明け、三日から短い後半がはじまる。朝八時半、天候は悪く下手したら雪になるかもしれない。しかし、それはそれで素敵な事じゃないか。そのくらいポジティヴで足取りも軽かった。
 しかし。
 塾の前に人だかりが見えた。生徒だ。授業は九時からなので気の早い生徒が来ることは不思議でも何でもない。その為、先生は早めに来ることになっている。一番早いのは塾長で夏期講習の時は八時には来ていたという。
「先生、開いてないよ。それに」
 生徒が指さしている。空に向けて。みんな、あれが、あれが、と言っている。
「なに、UFOでもいるの」
「違うよ、あれ」

 
「あ、ああ、冬期講習ですね。冬期講習のテキストは、えーと、決まってますので大丈夫です」
 指さした所には茶色の薄紙に包まれているテキストの山があった。あれは、新しいものではない。僕がここに面接に来た時からあったものだ。
「あれって、前から……」
「今回は、あのテキストで」
 突然、塾長の声質が変わった。授業モードになったので、僕はそれ以上聞くことが出来なかった。
 授業が終わり、生徒と女子大生を帰し、一人になったのを確認し、さっきの薄紙をそっと外し、テキストを取った。
 平成二十一年度冬期講習テキスト「英語」とあった。今年度って、平成二十三年度だよね。ということは。
「一昨年のじゃない、これ」
 部数も三十部くらいしかない。明らかに足りない。コピーでもしろと言うことなのか。というと、きっと秀吉クラスがコピーに該当するだろう。
「まいったね、これは」
 そこで僕はあることを思いついた。せっかくだから、彼らに特別プリントを作ってやろう。彼らの弱点は個々に分かっている。そこを少しでも改善すれば、高校に受かる確率も上がるだろう。
そう思うと、胸が起きあがり、うまくすれば体全体が浮き上がるような、高揚があった。バイト代にもならないし、自分の時間を割くことになる。分かっているが、なんとなく笑ってしまい、帰りの足取りも妙に軽い。
ある者は山の麓に来て自分が登山家と気付き、またある者は水を満たしたプールの縁に立ったときスイマーと自覚し、そしてある者はスタートラインでスターティングブロックに足をかけたとき、ああ、走るべき存在なんだと理解する。そんなやるべきものを得たという感覚が僕の中に走ったのだ。

 一週間の冬期講習を終えた。僕にとってこの一週間は格別のものだった。おそらく人生において自分の成長を感じる機会なんて滅多にないと思うが、僕は明らかにそう感じたのだ。

「名前を、初めて聞いた」
「名前言ってなかったか。そうそう、永井君の家、広くてね」
「その、永井君のお母さんって」
「居たよ。声と服装は若いけど、肌は隠せないって永井君言ってた」
「実際はどうだった」
「あまり顔は見れなかったけど、手作りのチーズケーキはおいしかったよ」
「そうか……」
 そう言ったきり、ガクは黙り込んでしまった。名前を伝えなかったことが気に入らなかったのかと思ったが、時々物思いに耽る事もあったので、そっとしておいた。

十二月に入った。嫌な予感は当たってしまった。生徒が激減したのだ。数は塾生徒の三分の一に相当した。いなくなったのは家康と信長クラスの一部で、秀吉クラスは九人揃っていた。彼らはきっと他の塾に入り直すのを拒んだのだろう。親は親で、ある程度は子供の学力を知っての事かもしれない。それに彼らは中一や中二からこの塾にいるので、慣れ親しむ自分のフィールドから離れる事が出来なかったのだろう。ただ、そんなに前からいるのに学力を一向に上げることの出来ないこの塾もどうかと思うが。
 平行して授業が減り、講師のリストラが起こるかと思ったがそうでもなかった。それは塾長が授業を持たなくなったからだ。普通リストラして塾長自身が授業を持てば経済的と思うのだが。それどころか塾長が塾にいることも少なくなってきたのだ。僕が行く時は、竹刀をもってうろうろしている姿を見るが、授業を終えて戻ってくると既にいない。そのため、帰りの戸締まり当番は僕の担当となった。
 夏休みは夏期講習で冬休みといえば冬期講習だ。またしても準備などで忙しくなると思っていた。
 講義の前に塾長を捕まえて聞いた。
「冬期講習のテキストとかって、選ぶんですか」