「大鏡」を味わう | ひさしのブログ

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初めに

今回は久々に古典文学作品に関して鑑賞してみたいと思う

今回取り上げる作品「大鏡」は所謂「四鏡」の一つで藤原氏の栄耀栄華を中心に書かれているが、赤染衛門の作品である「栄花物語(栄華物語)が賛美的に描いているのに対して、批判的に描いているのに特徴がある

加えて形式が大宅世継(190歳)と夏山繁樹(180歳)の高齢の老人同士昔語りというスタイルで地の文では度々語り人の世継ぎが登場する

だから「大鏡」は別名「世継物語」などとも呼ばれている

ところで書かれた時代は白河院の時代で所謂院政期、もうすっかり藤原氏の権力も衰えた時期に藤原氏が盛んだった時代を回想しながら話している

とりわけ話の中心は藤原氏の北家が中心、時平や師輔、兼家や道隆なども書かれているが、中心にいるのはやはり氏の長者の道長である

だから今回は「大鏡」の中でも道長の時代を取り上げて鑑賞したいと思う

 

大鏡 人 「道長」

 

四条大納言のかく何事にもすぐれ、めでたくおはしますを、大入道殿、いかでかかからむ。うらやましくもあるかな。わが子どもの、影だに踏むべくもあらぬこそ口惜しけれと申させたまいければ、中関白殿。粟田殿などは、げにさもとや思すらむと、恥づかしげなる御景色にて、ものもたまはぬに、この入道殿は、いと若くおはします御身にて、影をば踏まで、面をや踏まぬとこそ仰せられけれ。まことにこそさおはしますめれ。

内大臣殿だに、近くてえ見奉りたまはぬよ。

 

(鑑賞)

全文を通して鑑賞してみると、道長という人物の性格やその後の道長家の繁栄などもよくわかる気がする

ところで、古典文学作品を読む場合に読みにくかったり、誰の会話かわからない場合はまず「 」でくくってみると分かりやすくなる

それと会話の〆は「と」や「とて」の前で終わることが多い

まず一段目の四条大納言~最終段目の見奉りたまはむよ。までが大「」でくくって地の文だから語り手の世継ぎの会話になる

その中に登場人物の会話が複雑に絡んでいる

となると一段目の「いかでかかからむ。」~「あらぬこそ口惜しけれ」までが大入道殿の会話となりここでくくれる

それから地の文の世継ぎの会話が延々続いて、「影をば踏まで、面をや踏まぬ」までが入道殿(道長)の会話となる

大入道殿(兼家)は四条大納言(公任)が立派であるのに引け目を感じて自分の子供たちは公任の影さえも踏めないだろうと恐縮しているのに対して、、道長の兄である道隆や通兼はなるほどその通りだと自分たちの境遇を恥ずかしく思っているが、対して道長は堂々と影なんか踏まない、顔を踏んでやると言っている

後に通兼も道隆も道長の権威に押され没落していくが、この段はそれ象徴しているように思える

 

(語訳)

 

世継ぎが言うには「四条大納言がこの様に何事にもすぐれ、立派でいらっしゃるので、大入道殿が『どうしてあの様に立派であるのか。うらやましいものだなあ。わが子が公任の影さえ踏めないのは残念なことだ』と申されたので、中関白殿や粟田殿はなるほどそうとも思っているだろうと恥ずかしいようなご様子で、ものもおっしゃらないが、この入道殿は、たいそう若くていらっしゃる御身で『影なんか踏まないで、顔を踏んでやるぞ』とおっしゃったそうです。本当にそのようになっていらっしゃることです。

大納言は内大臣殿さえも近くで御対面できないでいらっしゃるようですよ」