映画のせいではなかった。
映画を観て泣くことはしばしばあったけれど、きょう山下が泣いたのはそのせいではなかった。
画面では陰鬱な、救いがたいほどに暗い表情をした女が珈琲をすすっていた。
 山下はスコッチ・ウイスキーを飲んでいた。
 水滴の垂れるグラスのまわりにはたとえば卵をあたためてつゆをかけ、それに葱をまぶしたものがのっている小皿や、水でもどしたわかめと刻んだ玉葱をポン酢で和え、それにかつ節とごまをかけただけの料理や、その他の安あがりな肴をのせた皿がいくつか置かれていた。
 初秋の夜更けだった。
 真紀は洗いものを終えて、静かに山下のうしろの藤椅子に腰掛けた。
山下は無言で真紀を振りかえり、何も見なかったかのようにまた視線をテレビに移した。
 開け放した窓からは蒸れたぬるい空気に混じって、きもち軽く涼やかな風が山下のいる部屋のなかを微かに舞った。
 真紀がビールの蓋を開けた。

 夏に雲が湧くように、心を瞬時に哀しみが襲うことがある。

 山下はもう映画など観てはいなかった。
ただしく言えば彼には映画どころか他の何ごとも見えはしなかった。
彼の目は涙であふれ、ひっきりなしに流れ出るそれを山下は拭おうともしなかった。
うしろにいる妻に悟られぬように、山下は泣いた。
身体がふるえぬように。肩がひきつらぬように。声のひとかけらも洩れださぬように。
 ひとしきり泣いてしまうと、陶然としたすこしの時間があった。
そのあとで山下は笑った。声もださず、まるで自嘲するように、嗤った。

 山下を襲った哀しみが何かはしらない。
皿のうえの肴はすこし乾いてみえた。
 
もう書かないよ
彼女が電話を切るのを待ってたんだ。理由はないけど、僕か
らは電話を切りたくなかった。
長いこと話をしていたから、もう話すこともなかったんだけ
ど、何だろう、名残惜しかったのかもしれない。とにかく、
『じゃあね』の後の中途半端なおまけみたいな時間。
しばらく、といってもそれはほんの短い時間なのだろうけれ
ど、そうしていたら彼女が笑いだして、どうして電話を切ら
ないのかって言ったんだ。僕にはそれがほんとにいじらしく
てさ、もどかしくて、いとしかった。結局、それからまた長
いこと話をしたんだけど、それで僕は思ったね、幸せだなぁ
って。跳びはねたいくらい心が騒いでた。
話はそれだけ。
意味はないよ。
そんなのいらないだろ?
要らないと思うんだよ。