マルコ15:42~47
■イエスの遺体を「引き取る」勇気
イエスは死んだ。
アリマタヤのヨセフという議員がイエスの亡骸をもらい受けるためにピラトの元を訪ねた。
このヨセフは恐らく、イエスの仲間や支援者たちに請われて、代表者とし遺体の引き取りを申し出たのだろう。
一般的に、処刑され絶命した罪人の遺体は、遺族がすぐにもらい受けに来るか、あるいは「遺体を傷つけない」「天国に行けるように丁寧に葬る」という風習に基づいて、行政の手で丁寧に葬られた。
その点では、イエスの身内、弟子、仲間、支援者たちがイエスの亡骸を引き取り埋葬する、ということは、特別なことではない。、
しかし、43節に「勇気を出して」とあるように
イエスの仲間、イエスの支援者にとって、イエスを埋葬することは自らの命の危機に直結する可能性があった。
何しろイエスと夕食を共にしたのが18時間前、イエスが捕縛されたのはわずか12時間ほど前の話なのだ。
たった半日前、宗教的権力者たちは、煽動された人々と一緒にイエスを捕らえ、6時間前にはイエスを磔にし、イエスはついさっき息を引き取った。
そんな緊迫した空気の中で、「埋葬したいので引き取らせてほしい」と願い出るのはたいそう勇気の要ることだったに違いない。
■イエスの死を「引き受ける」勇気
ヨセフは、死後硬直が始まる前にイエスの亡骸の手足を伸ばし、香油を塗り、亜麻布で巻き、岩穴の墓所に納めた。獣たちに食い荒らされないように、また遺体が盗み出されないように、墓の入口には大きな石を転がしておいた。
このようにヨセフは危険を顧みず、イエスの遺体を引き取ったのだが、
それは「イエスの死を引き受けた」ことを意味している。
自分たち(神から見れば仇敵)の身代わりとなり、命を差し出したイエス、その死に様に自分たちも倣おうという、静かな決意がヨセフからにじみ出ている。
埋葬はヨセフ一人がやったように書かれているが、きっとマグダラのマリアたち主立った支援者たちもそれを手伝ったに違いない。
しかしマルコは敢えてヨセフ一人の手によるものとして記している。
それは、イエスの死を自分のこととして引き受ける、ということが、徹底的に自分一人の問題でなければならないからだ。
みんながやるから、あの人がするから、といったようなことではない。
イエスに倣って敵を救うために自分の命を差し出す、という道を選ぶかどうかは、自分自身の主体性、自律性に基づくことなのだ。
マルコがこの福音書を編纂した頃、すでにキリスト教会には、個々の主体性、自律性を失った信徒が目につき始めていたのではないだろうか。
イエスの兄弟が興した教会の方が格上だとか、あの人はイエスの直弟子の子どもだから偉いとか、イエスがもっとも嫌った考え方や行動様式が蔓延しつつあったのではないか。
だからこそ、マルコは私たちに問いかけるのだ。
あなたは、一人の人として、イエスの遺体を引き取る勇気があるか?
あなたは、一人の人として、イエスの死を引き受ける覚悟があるか?
と。
■墓を見ていた
47節を読むと、マグダラのマリアやイエスの実母マリアのような、イエスを熱烈に支援していた女性たちは、この埋葬に関わっていないように見えるが、そんなことはないだろう。
ヨセフが手続きした後、イエスの埋葬はマリアたちが中心になって行ったのだと思う。
成人男子以外は人として数えられることがなかった時代。
イエスの死のクライマックスで二人のマリアの名前が記されていることは、彼女たちがイエスの仲間・支援者たちの中で重要な存在だったかを示している。
そのマリアたちが、墓を見ていた。
夫を亡くした妻
息子を亡くした母
尊敬し信頼できる先生を失った弟子
自分を癒し、孤独から救い出してくれた人を失った支援者たち
イエスを葬った場所を見つめながら
悲しくて悲しくて途方に暮れて、彼らは立っていただろう。
しかし、それだけだったのか?
彼らの胸の内にはこの時、イエスの死を引き受ける覚悟がふつふつと沸き立っていたのではないか。
死んだはずのイエスは、すでに墓を見つめる彼らの中に甦っているのだ。
■イエスの遺体を「引き取る」勇気
イエスは死んだ。
アリマタヤのヨセフという議員がイエスの亡骸をもらい受けるためにピラトの元を訪ねた。
このヨセフは恐らく、イエスの仲間や支援者たちに請われて、代表者とし遺体の引き取りを申し出たのだろう。
一般的に、処刑され絶命した罪人の遺体は、遺族がすぐにもらい受けに来るか、あるいは「遺体を傷つけない」「天国に行けるように丁寧に葬る」という風習に基づいて、行政の手で丁寧に葬られた。
その点では、イエスの身内、弟子、仲間、支援者たちがイエスの亡骸を引き取り埋葬する、ということは、特別なことではない。、
しかし、43節に「勇気を出して」とあるように
イエスの仲間、イエスの支援者にとって、イエスを埋葬することは自らの命の危機に直結する可能性があった。
何しろイエスと夕食を共にしたのが18時間前、イエスが捕縛されたのはわずか12時間ほど前の話なのだ。
たった半日前、宗教的権力者たちは、煽動された人々と一緒にイエスを捕らえ、6時間前にはイエスを磔にし、イエスはついさっき息を引き取った。
そんな緊迫した空気の中で、「埋葬したいので引き取らせてほしい」と願い出るのはたいそう勇気の要ることだったに違いない。
■イエスの死を「引き受ける」勇気
ヨセフは、死後硬直が始まる前にイエスの亡骸の手足を伸ばし、香油を塗り、亜麻布で巻き、岩穴の墓所に納めた。獣たちに食い荒らされないように、また遺体が盗み出されないように、墓の入口には大きな石を転がしておいた。
このようにヨセフは危険を顧みず、イエスの遺体を引き取ったのだが、
それは「イエスの死を引き受けた」ことを意味している。
自分たち(神から見れば仇敵)の身代わりとなり、命を差し出したイエス、その死に様に自分たちも倣おうという、静かな決意がヨセフからにじみ出ている。
埋葬はヨセフ一人がやったように書かれているが、きっとマグダラのマリアたち主立った支援者たちもそれを手伝ったに違いない。
しかしマルコは敢えてヨセフ一人の手によるものとして記している。
それは、イエスの死を自分のこととして引き受ける、ということが、徹底的に自分一人の問題でなければならないからだ。
みんながやるから、あの人がするから、といったようなことではない。
イエスに倣って敵を救うために自分の命を差し出す、という道を選ぶかどうかは、自分自身の主体性、自律性に基づくことなのだ。
マルコがこの福音書を編纂した頃、すでにキリスト教会には、個々の主体性、自律性を失った信徒が目につき始めていたのではないだろうか。
イエスの兄弟が興した教会の方が格上だとか、あの人はイエスの直弟子の子どもだから偉いとか、イエスがもっとも嫌った考え方や行動様式が蔓延しつつあったのではないか。
だからこそ、マルコは私たちに問いかけるのだ。
あなたは、一人の人として、イエスの遺体を引き取る勇気があるか?
あなたは、一人の人として、イエスの死を引き受ける覚悟があるか?
と。
■墓を見ていた
47節を読むと、マグダラのマリアやイエスの実母マリアのような、イエスを熱烈に支援していた女性たちは、この埋葬に関わっていないように見えるが、そんなことはないだろう。
ヨセフが手続きした後、イエスの埋葬はマリアたちが中心になって行ったのだと思う。
成人男子以外は人として数えられることがなかった時代。
イエスの死のクライマックスで二人のマリアの名前が記されていることは、彼女たちがイエスの仲間・支援者たちの中で重要な存在だったかを示している。
そのマリアたちが、墓を見ていた。
夫を亡くした妻
息子を亡くした母
尊敬し信頼できる先生を失った弟子
自分を癒し、孤独から救い出してくれた人を失った支援者たち
イエスを葬った場所を見つめながら
悲しくて悲しくて途方に暮れて、彼らは立っていただろう。
しかし、それだけだったのか?
彼らの胸の内にはこの時、イエスの死を引き受ける覚悟がふつふつと沸き立っていたのではないか。
死んだはずのイエスは、すでに墓を見つめる彼らの中に甦っているのだ。