マルコ16:19~20


【神話の背景】

16章9節以降を読むと、初期のキリスト教会が晒されていた世間からの批判の中身がよくわかります。

一つは「復活」。
死んだのに甦るなどあるはずがない!
そんなことを信じてるなんて理解できない!
と。

そしてもう一つが今日の箇所に書かれている
「天に昇って、神の右の座に着かれた」という話。

「おいおい、それって、誰が見たん?!」
て、ツッコミまくられそうな話です。

まあ、復活も昇天も神の後継者となったことも、神話的な表現で、
たとえば弘法大師が一晩で掘った巨大な溜め池が全国に無数にあるのと同じようなことで、
自然科学的に正しいかどうかを議論する必要はないんですが…。

では、イエスという人が処刑されたにも関わらず、それでも甦り、さらには神としてこの世を統べ治めて下さってる、と書かずにはおれなかったのは何故か?

それは一言で言うと「そうでないと困る」から
だと思う。

ペテロを例にとれば、
卑しい仕事に就いているといって差別され、世間の人から目を逸らされながら生きてきた漁師の兄弟が、生まれて初めて自分たちを「真っ直ぐ見る」人と出会った。
その人から「人間を獲る漁師にしてやろう」といわれて従った。
多くの人を助け、癒し、励まし、一緒に生きた。
その人が無残に殺され、そのままだったとしたら、自分たちはこれ以上生きていけないし、
安心して死ねない。

だから、イエスには甦ってもらわないと困る。
そのイエスは天に昇って、神の右に座ってもらわないと困る、のだ。


【あの世の保証】

私たちは大抵、この世での幸せを願っている。
けれども、それより大切なことがある。
それは、あの世で幸せかどうか、ということです。

地上で必死に蓄財しても心の安寧には結びつかない。
むしろ積めば積むほど不安が増します。
それらを死後の世界に持って行けないことを知っているからです。

あの世での幸せが保証されない限り
この世での心の安寧などありえないことを、実は、私たちは知っているのです。


【再会の約束】

今回も最後は私の義父の話で恐縮ですが、
昨日退院し、1ヶ月ぶりにホームに帰った義父は
いつ誤嚥性肺炎を再発してもおかしくない状態。

昨日も、救急車を呼ぶタイミングについて、ホーム側と長い時間話し合いました。
しかし、いくら話しても結論は出ない。
仮に在宅介護を頑張ったとしても、きっと100点満点の看取りが出来るとは限らない。

義父は元気な時から皮肉屋でへそ曲がりで、本心を明かさない人だったから
喋れなくなったいま、彼が何を望んでるのか、どうしてほしいのか、正確な所は分からない。
結局は悩み続けながら義父を見送ることになるのでしょう。

ただ、そんな不本意な別れが待っているのに今寄り添うのはとても辛いのです。
投げ出してどこかへ消えてしまいたいと思います。

しかしそれでもまた義父の元に通えるのは
あの世での再会が約束されているからです。

また会って、あの時はちゃんとでけへんかってゴメンやで~と謝ることができる。
それがあるから、それを頼りに介護を続けられる。

だからほんとに
イエスは天に昇って、天国で私たちを待っててもらってないと困るのです。