マタイ5:33~37
【上品か下品か】
もう20年くらい前に書かれた本ですが、『子どものための哲学対話』という本があります。
永井均(ながいひとし)という哲学の先生が、とっても解りやすく哲学について書いて下さっています。
その中で「上品な人と下品な人」という下りがあります。
たとえば、これは私もそうなのですが、
私たちはよく「人生を前向きに生きるために」とか「限られた人生を有意義に生きるために」といっては、生きるための目標を設定し、人生の課題みたいなものを設定しようとします。
自分が生まれて来たのは「病気で苦しむ人を救うため」だとか、「幼い命を守るためだ」とか、「開発で奪われる野生生物を保護するためだ」とか、果たすべき使命を探します。
そして、この目標や使命を達成するために短期計画を立て、中期計画を立て、長期計画を立て、これらを一つ一つ遂行し、満足を手に入れようとします。
しかし、こういう生き方が上品か下品かというと、永井先生は「下品だ」と書いてらっしゃる。
上品な人とはどんなのかというと、「いま、ここで生きている、生かされている、ただそのことで十分満足し、幸せだと感じられる人」なのだそうです。
逆に、生きるための意義付けをしなければ充足感を得られない人や
目標設定をし、それを順次遂行していかないと満足できない人は「下品」なのだそうです。
そういうことでいうと、
自分は何のために生まれ、誰のために生きるのか、を強烈に考え、探し求め、天から与えられた使命に殉じようとする様な人はとても下品なのです。
ここに集う私たちのように、社会福祉や教育、医療や看護といった分野で頑張ってる人間は、大体が下品だということになりそうです。(笑)
【誓わずに社会事業を行うことは可能か】
さて、今日の箇所、イエスの無理難題シリーズ第四弾は「誓うな」がテーマ。
昔からの戒めでは「偽りの誓いを立てるな。偽りでなくても一旦神にかけて誓ったら必ず果たせ」といわれているのですが、イエスはさらにそれを推し進め「一切誓うな」というのです。
たとえば、私が代表理事を務める市民団体 SaveForestX では、来年4月オープンを目標に、発達障がいの子どもたちのデイサービス等を行うことを決めています。事業認可を大阪市から得るために法人を設立するなど様々な準備に突入しています。
目標を決め、それを遂行するための行動計画を立てる、その時点で私たちは行政を始め、この社会に対して「誓った」ことになります。障がいある子どもたちと四苦八苦しながら暮らしておられるご家族に対してサービスを提供することを「誓った」ことになります。
たとえば久宝まぶね保育園の土地取得にしても園舎増築にしても、いつまでという期日が決められ、そこに向けての計画が立てられ、粛々と工事が進んでいく訳で、そのたびに私たちは「誓い」を立てざるを得ないのです。
しかし、そもそもこの教会が福祉という社会事業に取り組むことになったのは、何が原因かというと、私たちがイエスという人と出会ってしまったからです。
居場所のない人と真っ直ぐ向き合い、寄り添い、決して独りにはしなかったイエス。
そのイエスに感動し、そのイエスに倣いたいと思った。
私たちもイエスのように生きようと決心した。
そこが私たちの出発点なのです。
なのに、いまさら「誓うな」といわれても!!
と文句の一つもいいたくなります。
【イエスにさえ拘らない】
先の永井先生の定義でいえば、どうやら、イエスが求めているのは「上品な生き方」であるように思えます。
いま、あるがままを喜ぶ、生きてるだけで幸せを感じる
=目標を定めない
=誓わない
=上品
ということでしょうか。
確かに、いくら社会正義に裏付けされていることであっても上手くいかないことがあります。
福祉や教育や医療や環境問題のために目標を定め、計画を練って、それを遂行するために奮闘しても、それが事業として永遠に続く保証などどこにもありません。
この久宝教会にしても、コイノニア福祉会にしても、牽引してきた第一世代がいつまでもこの世にいらっしゃる訳ではありません。
いつか必ず第二世代・第三世代がバトンを受け継ぎ、新たな現場を創造していかなければなりません。
その時、目の前にあるのは一体どんな現場なのか、それはその時になってみないと判らないのです。
私たちは下品です。
目標を定めなければ生き甲斐を手に入れられない。
行動計画を立て、それを一つ一つ遂行していかなければ、気持ちが落ち着かない。
私たちはそのように弱い(下品な)存在です。
弱い弱い私たちは、自分たちの安寧のためなら、イエスさえ利用してしまっているのではないでしょうか。
イエスが命がけで伝えたかったことは
「生まれてきてくれてありがとう」
「今生きててくれてありがとう」
ということだと、繰り返しお話ししていますが、
それと同時にイエスが伝えたかったことは
「拘るな」ということでした。
私たちは自分の生まれてきた意味に拘ります。
私たちは自分の人生を誰の役に立たせなければならないかに拘ります。
私たちはイエスが求めている生き方に拘ります。
イエスその人に拘り、イエスの言葉に拘ります。
しかし、イエスは「拘るな」と言い続けた人でした。
ついには「私(イエス)にさえ拘るな」と伝えるために十字架にかかり、
自分が神の子なんかではなく死んだら土に還るただの人であることを示したのだと、私は思っています。
誓うな、とは拘るな、ということです。
右に行こうと決めて歩き出しても、突然道が閉ざされるかもしれない、
その時、ああそうか、とあるがままを受け入れる。
そこでしばらく休憩するのもありでしょう。
横になり昼寝をするのもありでしょう。
さっそく引き返して違う道を探すのもありでしょう。
もう旅することを止めて、そこに家を建て、そこに住みつくのもありでしょう。
逆にここで家族と一緒に安定した暮らしを営もうと決めていても、
突然遠い国に連れて行かれるかも知れない。
その時、ああそうか、とあるがままを受け入れる。
どこに連れて行かれても、神の手の中で、今日も命があり、今日も生きていられることを喜ぶ。
そんな心持ちで生きていこう、とイエスはいっているのです。
誓わずに、上品に、拘らずに。
草の上の、暖かい日だまりの中で、
何も考えず、みんなでただぼんやりと昼寝をしているような、
そんな時間を、イエスは大好きだったのではないでしょうか。
【上品か下品か】
もう20年くらい前に書かれた本ですが、『子どものための哲学対話』という本があります。
永井均(ながいひとし)という哲学の先生が、とっても解りやすく哲学について書いて下さっています。
その中で「上品な人と下品な人」という下りがあります。
たとえば、これは私もそうなのですが、
私たちはよく「人生を前向きに生きるために」とか「限られた人生を有意義に生きるために」といっては、生きるための目標を設定し、人生の課題みたいなものを設定しようとします。
自分が生まれて来たのは「病気で苦しむ人を救うため」だとか、「幼い命を守るためだ」とか、「開発で奪われる野生生物を保護するためだ」とか、果たすべき使命を探します。
そして、この目標や使命を達成するために短期計画を立て、中期計画を立て、長期計画を立て、これらを一つ一つ遂行し、満足を手に入れようとします。
しかし、こういう生き方が上品か下品かというと、永井先生は「下品だ」と書いてらっしゃる。
上品な人とはどんなのかというと、「いま、ここで生きている、生かされている、ただそのことで十分満足し、幸せだと感じられる人」なのだそうです。
逆に、生きるための意義付けをしなければ充足感を得られない人や
目標設定をし、それを順次遂行していかないと満足できない人は「下品」なのだそうです。
そういうことでいうと、
自分は何のために生まれ、誰のために生きるのか、を強烈に考え、探し求め、天から与えられた使命に殉じようとする様な人はとても下品なのです。
ここに集う私たちのように、社会福祉や教育、医療や看護といった分野で頑張ってる人間は、大体が下品だということになりそうです。(笑)
【誓わずに社会事業を行うことは可能か】
さて、今日の箇所、イエスの無理難題シリーズ第四弾は「誓うな」がテーマ。
昔からの戒めでは「偽りの誓いを立てるな。偽りでなくても一旦神にかけて誓ったら必ず果たせ」といわれているのですが、イエスはさらにそれを推し進め「一切誓うな」というのです。
たとえば、私が代表理事を務める市民団体 SaveForestX では、来年4月オープンを目標に、発達障がいの子どもたちのデイサービス等を行うことを決めています。事業認可を大阪市から得るために法人を設立するなど様々な準備に突入しています。
目標を決め、それを遂行するための行動計画を立てる、その時点で私たちは行政を始め、この社会に対して「誓った」ことになります。障がいある子どもたちと四苦八苦しながら暮らしておられるご家族に対してサービスを提供することを「誓った」ことになります。
たとえば久宝まぶね保育園の土地取得にしても園舎増築にしても、いつまでという期日が決められ、そこに向けての計画が立てられ、粛々と工事が進んでいく訳で、そのたびに私たちは「誓い」を立てざるを得ないのです。
しかし、そもそもこの教会が福祉という社会事業に取り組むことになったのは、何が原因かというと、私たちがイエスという人と出会ってしまったからです。
居場所のない人と真っ直ぐ向き合い、寄り添い、決して独りにはしなかったイエス。
そのイエスに感動し、そのイエスに倣いたいと思った。
私たちもイエスのように生きようと決心した。
そこが私たちの出発点なのです。
なのに、いまさら「誓うな」といわれても!!
と文句の一つもいいたくなります。
【イエスにさえ拘らない】
先の永井先生の定義でいえば、どうやら、イエスが求めているのは「上品な生き方」であるように思えます。
いま、あるがままを喜ぶ、生きてるだけで幸せを感じる
=目標を定めない
=誓わない
=上品
ということでしょうか。
確かに、いくら社会正義に裏付けされていることであっても上手くいかないことがあります。
福祉や教育や医療や環境問題のために目標を定め、計画を練って、それを遂行するために奮闘しても、それが事業として永遠に続く保証などどこにもありません。
この久宝教会にしても、コイノニア福祉会にしても、牽引してきた第一世代がいつまでもこの世にいらっしゃる訳ではありません。
いつか必ず第二世代・第三世代がバトンを受け継ぎ、新たな現場を創造していかなければなりません。
その時、目の前にあるのは一体どんな現場なのか、それはその時になってみないと判らないのです。
私たちは下品です。
目標を定めなければ生き甲斐を手に入れられない。
行動計画を立て、それを一つ一つ遂行していかなければ、気持ちが落ち着かない。
私たちはそのように弱い(下品な)存在です。
弱い弱い私たちは、自分たちの安寧のためなら、イエスさえ利用してしまっているのではないでしょうか。
イエスが命がけで伝えたかったことは
「生まれてきてくれてありがとう」
「今生きててくれてありがとう」
ということだと、繰り返しお話ししていますが、
それと同時にイエスが伝えたかったことは
「拘るな」ということでした。
私たちは自分の生まれてきた意味に拘ります。
私たちは自分の人生を誰の役に立たせなければならないかに拘ります。
私たちはイエスが求めている生き方に拘ります。
イエスその人に拘り、イエスの言葉に拘ります。
しかし、イエスは「拘るな」と言い続けた人でした。
ついには「私(イエス)にさえ拘るな」と伝えるために十字架にかかり、
自分が神の子なんかではなく死んだら土に還るただの人であることを示したのだと、私は思っています。
誓うな、とは拘るな、ということです。
右に行こうと決めて歩き出しても、突然道が閉ざされるかもしれない、
その時、ああそうか、とあるがままを受け入れる。
そこでしばらく休憩するのもありでしょう。
横になり昼寝をするのもありでしょう。
さっそく引き返して違う道を探すのもありでしょう。
もう旅することを止めて、そこに家を建て、そこに住みつくのもありでしょう。
逆にここで家族と一緒に安定した暮らしを営もうと決めていても、
突然遠い国に連れて行かれるかも知れない。
その時、ああそうか、とあるがままを受け入れる。
どこに連れて行かれても、神の手の中で、今日も命があり、今日も生きていられることを喜ぶ。
そんな心持ちで生きていこう、とイエスはいっているのです。
誓わずに、上品に、拘らずに。
草の上の、暖かい日だまりの中で、
何も考えず、みんなでただぼんやりと昼寝をしているような、
そんな時間を、イエスは大好きだったのではないでしょうか。