マタイ 7:7~12
【求めれば与えられる】
求めなさい、そうすれば、与えられる
探しなさい、そうすれば、見つかる
門をたたきなさい、そうすれば、開かれる
とイエスはいう(7節)。
求めれば与えられ、探せば見つかり、門をたたけば開かれるのだ、と。
世間から疎まれ、コミュニティの片隅に打ち捨てられ、孤立無援の中でもがいている人々に(つまり私たちに)イエスはまたとんでもないことをいう。
パンを欲しがってる子どもに石を与える親はいないだろう。
魚を欲しがってる子どもに蛇を与える親はいないだろう。
それと同じように神様は子どもであるお前たちに、必ずよいものを与えて下さる。
だから心配するな、と。
【自分が必要なものを求めてみる】
クラウドファンディングという仕組みがある。
https://www.makuake.com/
自分がやり遂げたいプロジェクトをネットの世界で発信し、不特定多数の人に資金援助してもらうというものだ。
自分の情熱、プロジェクトの魅力を世に問い、助けてもらう。
Makuakeのサイトを見てもらえば分かるが、数百万円の援助を受けている例もある。
これはまさに、「求めなさい、そうすれば、与えられる」の具体例だ。
いや、これは想像なのだが、このクラウドファンディングという仕組みは
このイエスの言葉に依拠して始まったのではないか、とさえ私は思っている。
私たちはいつも、「どうせ無理だ」「相手にされるはずがない」と先に諦めてしまって、
求めることを止めているだけなのだ。
自分の求めに手を差し伸べてくれる人は、きっといるにも関わらず。
【戴いたものを、一番必要としている人に贈ってみよう】
しかし、今日の箇所の最後でイエスはこういっている。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と。
求めればいい、そうすれば必ず与えられる。
けれども、そうして戴いたものは、自分の中に貯め込んでいてはダメだ。
今度は自分に対して求めてくる人に、戴いたものを貰ってもらいなさい、というのだ。
イエスはこれを律法と預言者だという。
律法とは契約関係のことだ。
何の契約かというと、神と人間との契約だ。
神様はロクデナシであり悪者である人間に、無償で必要なものを与えて下さる。
そこに示されている関係を人間同士でも具体化する。
という契約だ。
難しいことではない、
求めて与えられたように、求められたら与えよう。
ただそれだけのことだ。
私たちは、戴いたものを独り占めしていては決して幸せにはなれない。
戴いたものは、次にそれを必要としている人に惜しみなく贈る。
そのような人が預言者(神の願いを具体化する人)なのだ。
じっとしていても何も始まらない。
自分がやるべきことを実現するために求めてみよう
そうして戴いたものを、それをもっと必要としている人に贈ろう。
私たちは求めることで自分が孤独ではないことを知る。
同じように、私たちは与えることで贈ることで、その人が孤独ではなくことを伝えることができるのだ!
【求めれば与えられる】
求めなさい、そうすれば、与えられる
探しなさい、そうすれば、見つかる
門をたたきなさい、そうすれば、開かれる
とイエスはいう(7節)。
求めれば与えられ、探せば見つかり、門をたたけば開かれるのだ、と。
世間から疎まれ、コミュニティの片隅に打ち捨てられ、孤立無援の中でもがいている人々に(つまり私たちに)イエスはまたとんでもないことをいう。
パンを欲しがってる子どもに石を与える親はいないだろう。
魚を欲しがってる子どもに蛇を与える親はいないだろう。
それと同じように神様は子どもであるお前たちに、必ずよいものを与えて下さる。
だから心配するな、と。
【自分が必要なものを求めてみる】
クラウドファンディングという仕組みがある。
https://www.makuake.com/
自分がやり遂げたいプロジェクトをネットの世界で発信し、不特定多数の人に資金援助してもらうというものだ。
自分の情熱、プロジェクトの魅力を世に問い、助けてもらう。
Makuakeのサイトを見てもらえば分かるが、数百万円の援助を受けている例もある。
これはまさに、「求めなさい、そうすれば、与えられる」の具体例だ。
いや、これは想像なのだが、このクラウドファンディングという仕組みは
このイエスの言葉に依拠して始まったのではないか、とさえ私は思っている。
私たちはいつも、「どうせ無理だ」「相手にされるはずがない」と先に諦めてしまって、
求めることを止めているだけなのだ。
自分の求めに手を差し伸べてくれる人は、きっといるにも関わらず。
【戴いたものを、一番必要としている人に贈ってみよう】
しかし、今日の箇所の最後でイエスはこういっている。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と。
求めればいい、そうすれば必ず与えられる。
けれども、そうして戴いたものは、自分の中に貯め込んでいてはダメだ。
今度は自分に対して求めてくる人に、戴いたものを貰ってもらいなさい、というのだ。
イエスはこれを律法と預言者だという。
律法とは契約関係のことだ。
何の契約かというと、神と人間との契約だ。
神様はロクデナシであり悪者である人間に、無償で必要なものを与えて下さる。
そこに示されている関係を人間同士でも具体化する。
という契約だ。
難しいことではない、
求めて与えられたように、求められたら与えよう。
ただそれだけのことだ。
私たちは、戴いたものを独り占めしていては決して幸せにはなれない。
戴いたものは、次にそれを必要としている人に惜しみなく贈る。
そのような人が預言者(神の願いを具体化する人)なのだ。
じっとしていても何も始まらない。
自分がやるべきことを実現するために求めてみよう
そうして戴いたものを、それをもっと必要としている人に贈ろう。
私たちは求めることで自分が孤独ではないことを知る。
同じように、私たちは与えることで贈ることで、その人が孤独ではなくことを伝えることができるのだ!