マタイ10:40~11:1



【たった一つの約束を胸に】


マタイ10章は、教会から各地に派遣される弟子たちを励ますために書かれている。

「神の国はすでに来ている」「神と向き合え」と彼らは路上や会堂で語る。

ある程度のネットワークは保障されていたようだが、ほとんどの場所で彼らは歓迎されない。

石を投げられ、捕縛され、イエスのように殺される。

家族とも不仲になる。

平和の使いのはずなのに争いの種を播くことにもなる。

そんな弟子たちへの報いは何かというと、必ず天国に入れてもらえることだった。

どんなに辛い人生でも、自分の魂の行き着く先が約束されているのであれば、笑って生き、笑って死ねる。
そのことを胸に弟子たちは旅立ったのだ。

しかし、それだけで、人は命がけで他者の幸福を願い、他者の福祉に奔走し、他者のために身を挺することができるのだろうか。



【殺したいほど憎い相手に寄り添うイエス】


学生の頃、私はイエスの弟子として(つまり牧師として)見知らぬ土地に派遣されることへの恐怖や不安に押しつぶされそうになっていた。

そんな時にバイト先の居酒屋でトラブルを起こしたヤクザを、私は本気で殺そうと思った。
そいつは横暴で狡猾で、ヤクザ仲間からも煙たがられていた。
そいつがある日店で暴れ、止めに入った私はひどく侮辱された。
殺意を抱いた私は、そいつの日々の行動を観察し、誰にも見つからないように殺す機会を窺っていた。

遂に決行しようとした夜、
いつものように深夜の暗い路地で泥酔しうずくまっているその男に、殴りかかろうとした瞬間だった。
誰かがそいつの隣に寄り添っているのが見えた。
その人はそいつのゲロを浴びることも気にもせず、優しくそいつの名前を呼び、そいつの背中をさすっていた。
そしてそいつに肩を貸し立ち上がったその人は、イエスだった。



【報われたいからではなく】


私はその時ようやく気が付いた。

イエスはすべての人の友達なのだ。
私の友達であるのと同様、私が殺したいほど憎いと思ったこいつでさえ、イエスにとっては友達なのだ。
それに比べて私は何と浅ましいのか。
私は偉くなりたくて牧師になろうとしていた。
小さく汚く臭く、危険で、いつも自分を不安にさせる、そういう人たちに手を差し伸べることで、人々から評価してもらいたいと考えていた。
『この小さな者の一人』に仕えるフリをして、実はその人を利用して名声を得ようとしていた。


イエスは報われたくて『この小さな者の一人』に向き合い、寄り添い、手を差し伸べたのではない。
ただそうするしか他にやることが思いつかなかったからそうしただけなのだ。

天国に行けるのかどうかなんてどうでもいい、目の前にいる孤独の中で死にそうになってるこの人をほってはおけないだけなのだ。


今日の箇所には『この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける』と書いてあるけれど、そこに心を奪われてはいけない。
「報われたいから冷たい水一杯を飲ませる」のではない。
イエスがそうであり、いまもそうしておられるように、私もそうしたい。
それはとても難しいことだが、
私はいつも、ただそれだけの者でありたい。