2015年12月20日
日本基督教団久宝教会クリスマス礼拝メッセージ
ルカによる福音書2:20
【黒んぼ鬼ごっこ】
私が小学校1年の時、お正月明けにクラスにKちゃんという女の子が転校してきた。
彼女は一見黒人に見えた。
肌は光沢のあるブラック、髪はチリチリ、長い手足、細いけれど筋肉質、4年生くらいに見える長身だった。
でもKちゃんのお母さんは日本人で、Kちゃんも日本語しかしゃべれなかった。
クラスのお母さんたちは、強烈に、彼女とは遊ぶな、家にも遊びに行くな、という雰囲気を醸し出していたけれど、私たちはそんなことにはお構いなく、一緒に遊んだ。
一番楽しかったのはジャングルジムを縦横に使う鬼ごっこだった。
Kちゃんの身体能力は凄まじく、クラスの男子20人くらいをあっという間に捕まえて見せた。
運動に自信のあった私でも逃げ切れたことは一度もなかった。
私たちはKちゃんとジャングルジムで遊ぶことに熱中し、Kちゃんに追い詰められ捕えられることに興奮していた。
最初、母親たちからの言いつけを守っていた女子たちも、私たちの様子を見ていて、あまりに楽しそうなのでじっとしていられなくなり、ある日、遂にこの鬼ごっこに交じるようになった。
鬼ごっこのルールは当初、Kちゃんが鬼で、彼女が全員を捕まえたら終了、というものだったが、
ある時から、じゃんけんで鬼を決め、その鬼が全員を捕まえる、というルールに変更された。
ずっとKちゃんが鬼をしてるのは不公平な気がしたからだった。
ルールは変わってもKちゃんの俊敏さは変わらず、結局誰が鬼になっても、Kちゃんだけは捕まえることが出来なかった。
いつしか、私たちの中にKちゃんへの畏敬の念が充満し、この遊びに特別な名前を付けたくなっていた。
私たちはジャングルジムの上で会議をした。
この遊びは最早「ジャングル鬼ごっこ」ではない、Kちゃんがいなくては絶対成り立たない特別な鬼ごっこだ、と話し合った。
その結果、私たちはKちゃんを崇める思いを込めてこの遊びを「黒んぼ鬼ごっこ」と名付けたのだった。
私たちの中で「黒んぼ」は蔑称なんかではなく、Kちゃんを褒め称えるための言葉だったのだ。
こうして私たちは毎日、休み時間の度に、放課後に、ジャングルジムに集まり、「黒んぼ鬼ごっこ」に熱中した。
帰る時、私たちは皆、最高のスキップをしていた。
他に、私たちをこんなに軽やかに高らかに弾ませてくれる遊びはなかった。
彼女が3学期の終わりに突然転校するまでは。
【居場所のない者として生まれた】
Kちゃんのお父さんは、沖縄に駐留しているアメリカ兵だったという。
母親たちの噂話では、お母さんは売春をしていて黒人の兵隊さんの子を妊娠し、故郷におれなくなって大阪に逃げて来たのだという。
私は、イエスの生誕物語を読むたびに、このKちゃんのことを思い出す。
イエスもまた、当時のユダヤに駐留していたローマ兵が13歳のマリアを強姦し、生ませた子だったからだ。
Kちゃんとの違いは、イエスには血のつながらない父親がいた、ということだが、そのことで、ヨセフとイエスの父子関係はとても複雑だったろうと思う。
さらにイエスとは父親の違う弟や妹が生まれたことで、イエスは家族の中でも居場所がなくなっていたのではないかと推測する。
【繋がりを創り出す者を「神の子」という】
居場所のない者として生まれ、居場所のない者として成長したイエスが、命がけでやった仕事は何だったかというと、それは「繋がりから排除された人を繋がりに戻す」、「喪われていた繋がりを回復する」、「新たな繋がりを創り出す」ということだった。
それを見た人々は、彼を「神の子」だと思ったのだ。
なぜならユダヤには古来「インマヌエル」という言葉があった。
それは「神はあなたと共におられます」という意味だ。
どんな人でも決して見捨てず、寄り添い、友となったイエスを見て、
人々は「神さまは自分たちと共にいるのだ!」ということを実感したのだ。
自分たちと共にいて、自分たちを決して見捨てないこの人は、神の子に違いない!と思ったのだ。
【羊飼いたちのスキップ】
イエスの誕生を間近で見守ったのはマリアとヨセフだが、その傍にいたのは家畜たちだった。
ヨセフの身内は誰も、汚れた女と、その女を娶った男と、汚れの象徴のような子どもを祝福しなかった。
そして、真っ先に祝いに駆けつけたのは、羊飼いたちだった。
彼らは当時、漁師同様、人として扱われることのない人たちだった。
社会の最底辺に押し込められた人たちが真っ先にイエスを祝いに来た。
次に訪れた三人の博士は外国人だった。
ユダヤの選民思想からすれば外国人は異教徒であり、罪人であり、地獄に堕ちる人々だった。
イエスを祝いに来た人たちは、その帰り道、きっと、スキップをしていただろうと思う。
嬉しくて嬉しくて仕方なくて、スキップをして帰ったに違いないと思う。
何故なら、神の子がこんな最底辺の私のために生まれてくれたから。
何故なら、神の子が外国人である我々のためにも生まれてくれたから。
何故なら、繋がりの外に置かれた私を、繋がりの内側に戻し、新しい繋がりを創り出すために、神の子が生まれてきてくれたから。
【スキップしながら繋がりを創り出そう】
「気が付いたらスキップしているのが子どもで、いつの間にかスキップをしなくなったのが大人」という言葉があるけれど、私たちはいつの間にかスキップを忘れている。
繋がりから排除されてスキップできなくなる。
繋がることを諦めてスキップをしなくなる。
繋がりを喪えば心は躍らない。
だからスキップをしなくなるのだ。
幾つになっても「気が付いたらスキップしてる」人であり続けたい。
そのために、私たちはスキップしたくなるような新しい繋がりを創り出し続けたいのだ。
神の子Kちゃんが教えてくれた
「黒んぼ鬼ごっこ」のような繋がりを。
日本基督教団久宝教会クリスマス礼拝メッセージ
ルカによる福音書2:20
【黒んぼ鬼ごっこ】
私が小学校1年の時、お正月明けにクラスにKちゃんという女の子が転校してきた。
彼女は一見黒人に見えた。
肌は光沢のあるブラック、髪はチリチリ、長い手足、細いけれど筋肉質、4年生くらいに見える長身だった。
でもKちゃんのお母さんは日本人で、Kちゃんも日本語しかしゃべれなかった。
クラスのお母さんたちは、強烈に、彼女とは遊ぶな、家にも遊びに行くな、という雰囲気を醸し出していたけれど、私たちはそんなことにはお構いなく、一緒に遊んだ。
一番楽しかったのはジャングルジムを縦横に使う鬼ごっこだった。
Kちゃんの身体能力は凄まじく、クラスの男子20人くらいをあっという間に捕まえて見せた。
運動に自信のあった私でも逃げ切れたことは一度もなかった。
私たちはKちゃんとジャングルジムで遊ぶことに熱中し、Kちゃんに追い詰められ捕えられることに興奮していた。
最初、母親たちからの言いつけを守っていた女子たちも、私たちの様子を見ていて、あまりに楽しそうなのでじっとしていられなくなり、ある日、遂にこの鬼ごっこに交じるようになった。
鬼ごっこのルールは当初、Kちゃんが鬼で、彼女が全員を捕まえたら終了、というものだったが、
ある時から、じゃんけんで鬼を決め、その鬼が全員を捕まえる、というルールに変更された。
ずっとKちゃんが鬼をしてるのは不公平な気がしたからだった。
ルールは変わってもKちゃんの俊敏さは変わらず、結局誰が鬼になっても、Kちゃんだけは捕まえることが出来なかった。
いつしか、私たちの中にKちゃんへの畏敬の念が充満し、この遊びに特別な名前を付けたくなっていた。
私たちはジャングルジムの上で会議をした。
この遊びは最早「ジャングル鬼ごっこ」ではない、Kちゃんがいなくては絶対成り立たない特別な鬼ごっこだ、と話し合った。
その結果、私たちはKちゃんを崇める思いを込めてこの遊びを「黒んぼ鬼ごっこ」と名付けたのだった。
私たちの中で「黒んぼ」は蔑称なんかではなく、Kちゃんを褒め称えるための言葉だったのだ。
こうして私たちは毎日、休み時間の度に、放課後に、ジャングルジムに集まり、「黒んぼ鬼ごっこ」に熱中した。
帰る時、私たちは皆、最高のスキップをしていた。
他に、私たちをこんなに軽やかに高らかに弾ませてくれる遊びはなかった。
彼女が3学期の終わりに突然転校するまでは。
【居場所のない者として生まれた】
Kちゃんのお父さんは、沖縄に駐留しているアメリカ兵だったという。
母親たちの噂話では、お母さんは売春をしていて黒人の兵隊さんの子を妊娠し、故郷におれなくなって大阪に逃げて来たのだという。
私は、イエスの生誕物語を読むたびに、このKちゃんのことを思い出す。
イエスもまた、当時のユダヤに駐留していたローマ兵が13歳のマリアを強姦し、生ませた子だったからだ。
Kちゃんとの違いは、イエスには血のつながらない父親がいた、ということだが、そのことで、ヨセフとイエスの父子関係はとても複雑だったろうと思う。
さらにイエスとは父親の違う弟や妹が生まれたことで、イエスは家族の中でも居場所がなくなっていたのではないかと推測する。
【繋がりを創り出す者を「神の子」という】
居場所のない者として生まれ、居場所のない者として成長したイエスが、命がけでやった仕事は何だったかというと、それは「繋がりから排除された人を繋がりに戻す」、「喪われていた繋がりを回復する」、「新たな繋がりを創り出す」ということだった。
それを見た人々は、彼を「神の子」だと思ったのだ。
なぜならユダヤには古来「インマヌエル」という言葉があった。
それは「神はあなたと共におられます」という意味だ。
どんな人でも決して見捨てず、寄り添い、友となったイエスを見て、
人々は「神さまは自分たちと共にいるのだ!」ということを実感したのだ。
自分たちと共にいて、自分たちを決して見捨てないこの人は、神の子に違いない!と思ったのだ。
【羊飼いたちのスキップ】
イエスの誕生を間近で見守ったのはマリアとヨセフだが、その傍にいたのは家畜たちだった。
ヨセフの身内は誰も、汚れた女と、その女を娶った男と、汚れの象徴のような子どもを祝福しなかった。
そして、真っ先に祝いに駆けつけたのは、羊飼いたちだった。
彼らは当時、漁師同様、人として扱われることのない人たちだった。
社会の最底辺に押し込められた人たちが真っ先にイエスを祝いに来た。
次に訪れた三人の博士は外国人だった。
ユダヤの選民思想からすれば外国人は異教徒であり、罪人であり、地獄に堕ちる人々だった。
イエスを祝いに来た人たちは、その帰り道、きっと、スキップをしていただろうと思う。
嬉しくて嬉しくて仕方なくて、スキップをして帰ったに違いないと思う。
何故なら、神の子がこんな最底辺の私のために生まれてくれたから。
何故なら、神の子が外国人である我々のためにも生まれてくれたから。
何故なら、繋がりの外に置かれた私を、繋がりの内側に戻し、新しい繋がりを創り出すために、神の子が生まれてきてくれたから。
【スキップしながら繋がりを創り出そう】
「気が付いたらスキップしているのが子どもで、いつの間にかスキップをしなくなったのが大人」という言葉があるけれど、私たちはいつの間にかスキップを忘れている。
繋がりから排除されてスキップできなくなる。
繋がることを諦めてスキップをしなくなる。
繋がりを喪えば心は躍らない。
だからスキップをしなくなるのだ。
幾つになっても「気が付いたらスキップしてる」人であり続けたい。
そのために、私たちはスキップしたくなるような新しい繋がりを創り出し続けたいのだ。
神の子Kちゃんが教えてくれた
「黒んぼ鬼ごっこ」のような繋がりを。