マタイ13:21~30



【草引きのタイミングは難しい】


今日の譬え話に出てくる、「麦」と「毒麦」の関係は、日本でいうと「稲」と「ヒエ」や「スブタ」(中華料理の「酢豚」ではなく「簀蓋」と書きます!)みたいなものでしょうか。

折角籾を選別して、いい籾だけを苗代に播き、苗を作ってそれを丁寧に植えても、雑草が生えてきます。

それも、困ったことにこれらは稲のすぐ隣りに、稲の根っこに絡まるように根を生やしグングン成長します。

そのため、稲がまだ幼い頃にこれらを除去しようとすると、絡まった根っこ同士が引っ張られ、肝心の稲まで抜いてしまうことになるから困ったものです。



【神さまの除草方法】


日本の水田では、稲に被害が出ないうちに、雑草が極々小さい間に、丹念に田圃に入って一本一本丁寧に「ヒエ」や「スブタ」を取り除きますが、イエスの譬え話に出てくる農園主(神さま)の除草方法は、これとは全く違います。

神さまの除草方法は、「刈り入れの時までそのままにしておき、刈り取ったあとに選別する」というものです。

麦と毒麦は穂が実るまでよく似ていて区別をつけにくいし、お互い根っこが絡まりあってるから除草の際に麦まで抜いてしまう可能性がある。
だから、収穫までは放置しておいて、収穫後選別して麦は蔵へ運び、毒麦は焼却してしまえばよい、ということです。



【麦であるために】


ナチスがユダヤ人の大量虐殺を行う前に、ヒトラーが命じたのは「精神障害・知的障害などの障害者の安楽死」という虐殺行為でした。
「T4作戦」(実行主体であった安楽死管理局がベルリン市内のティーアガルテン4番地にあったことから)と呼ばれるこの虐殺行為で数万人の障害者がガス室に送られたり、銃殺や餓死に追いやられました。

「非生産的な人々を安楽死させてあげるのは、社会にとってだけでなく、本人にとっても幸福なことだ」という考え方に従順従い、毎日障害者をガス室に押し込めて殺し、遺体を焼き続けた人は特別に残虐な人たちだったのか、というと実際はまったく逆でした。

ナチスの虐殺行為の先兵となったのは、勤勉で善良で優秀な医師・看護士・介護士といった専門職の人たちでした。
世間一般では毒麦ではなく麦だと思われている人々が虐殺を繰り返したのです。

また、虐殺が行われた精神病院から毎日立ち上る黒煙を見上げながら、それが遺体を焼く煙だと分かっていながら、虐殺行為を止めようとしなかった住民たちも、決して特に残虐な人たちだったという訳ではありません。
むしろみんな従順で穏やかな人たちだったに違いないのです。

誰でも簡単に毒麦になれる、というこの事実は私たちにこんな問いを投げかけています。

「あなたはどっちを選ぶ?」

………私たちは勿論、麦になりたい。

「大きい・強い・速い」者だけに価値があるのではない。「小さい・弱い・遅い」者にも同様の価値がある。何故なら前者だけでは社会は創造的にはなれないから。前者と後者が互いに補い合い、支え合って初めて、私たちの社会は創造的になれる。

私たちはそのような考えを貫き、そのように生き続けたいと願っています。

しかし、私たちは弱いです。

麦になることを願いながらながら、簡単に毒麦に転じてしまう。

自分は麦だと思い込んでいるだけで、実はすでに毒麦かもしれない。


では、私が麦であるために、麦であり続けるために、何をしたいいのでしょうか。

それは「自分で考え、自分で決める」ことだと思います。

みんなのいうこと、マスコミのいうこと、権力者のいうことを鵜呑みにせず、自分の足で現場に行き、自分で出会い、自分で考え、自分で決め、自分で行動する、ということです。

因習と規制だらけだった当時のユダヤの片田舎でイエスがそうして見せてくれたように。