マタイ16:5~12

イエスには政治的な意図も、新しい宗教を興す興味もなかった。
イエスはただ、一人の人を神さまと繋ぎ、その人を神さまに向き合わせたかっただけだった。

しかし、その活動に大勢の人が押し寄せ群れが出来ると、「その人と神さま」という本来極めて個人的な出来事だったものが、政治的な意味合いを帯びてくる。
イエスが望んだ訳でもないのに権力者も反権力勢力も、それぞれの思惑を持ってイエスの「運動」ににじりよって来た。

弟子たちの中にはそういう政治的な思惑に巻き込まれたり、中には始めからどちらかの立場を背負ってイエスの弟子になった者もいただろう。

イエスは弟子たちが「神さまとの個人的な対話」から遠ざかっていることを危惧した。
それはどこに現れるのかというと、「自分がやらなくても」「誰かがやってくれるだろう」といった無責任な態度、あるいは匿名性の中に逃げ込むといった卑怯な態度に現れる。

集まった群衆には、彼ら彼女らの腹を満たすために食材を調達し満遍なく配給するチームが随行していた。
イエスと出会い、神さまと向き合い、それが自分の使命だと自覚した裕福な人たちが群衆をサポートしたに違いない。
しかし、弟子たちはその上に胡座をかいて、自分で汗を流すことを避け、いつしか「飢えている人に施す」ことを人任せにしてしまった。更にはそれに留まらず自分の腹の心配さえ他人任せにしてしまった。
だから敬愛する先生を自分たちだけで囲むという最も睦まじい場面にも関わらず、誰も食事の準備をしてこなかったのだ。

神さまと向き合い、神さまからの信頼に応えるということは人任せには出来ない。
神さまから託された仕事をするというときには、誰かのせいにして逃げる訳にはいかないのだ。