幸福な死と同様の表現、同じような場面がいくつかあります。
主人公の名前もメルソー(幸福な死)とムルソー(異邦人)ですが、その名前に込められた意味が違う気がします。前者は「太陽」と「海」、後者は「死」と・・・「孤独」?
幸福な死を読んだ後にこれを読むと恐ろしく早く読み終わります。
というのも、単純に文構造やらが異邦人のほうが簡単だからです。幸福な死のときは、あらゆる表現描写をのせられるだけのせたという感じをうけましたが、異邦人ではかなりそれが読みやすいものになっていました。
さて内容についてですが、価値観、感情というのは相変わらずつかみどころないもんだよなーって想いを抱きながら読みました。
自分の肉親が亡くなったときに「普通は」涙を流すと思います。
ただ、そこでもし涙を流さず冷静ならば、その人は「異常」なのでしょうか?「残酷」「冷血」なのでしょうか?
大きな悲しみを背負ったときも冷静でいることを「異常」とみなすこと。
それは一見当たり前の事のように思われるかもしれませんが・・・。
確かに、ムルソーは殺人を犯しました。これは間違いの無い事実です。そして、死をもって償うのは当然だと思っています。本人が言ったように「太陽のせい」であろうが何であろうが、人を殺したという罪が揺らぐことは無いです。揺るぎないものこの世に一つ。
ただ、「普通」という立場から見て、その基準から離れている存在に対して、通常とは異なった扱いを与えるということについては慎重であり続ける必要があると思うのです。
特に、この裁判という制度では「人」が「人」を裁くわけですから、その裁く側の人間を選出するときには「できる限りにおいて良識を兼ね備えた首尾一貫した精神を持つ人間」を選ぶのが最善でしょう。ただ、「裁く人」を「選ぶ」人は?と聞かれたら、これもやはり、「良識のある人間」であることが望ましい。
では良識のある人間を選ぶのは誰か?となってくると、こっから帰納的な話になりましてキリがなくなります。
つまり、人間界はやはり多くの人間から成っていて、そのなかから何らかの平均を見出しているに他なりません。
そこから少しでも外れることは、不確かなものを扱う「裁判」では非常に不利になりますね。
ムルソーが、民衆の前での死刑に想いを馳せたのは、民衆に対する問いかけのような意味合いもあるのではないでしょうか?「私はこのようにして死刑を受けるが、あなたたちは一体どうだろうか?」と。
「私は感情を持っているにも関わらず、その表現方法によって異端視されたが、あなたたちはどうだろうか?」と。