悪魔のようなフィルム -2ページ目

【7】戦艦ポチョムキン

・【7】戦艦ポチョムキン 1925 セルゲイ・M・エイゼンシュタイン


この映画の見所は云わずと知れた“オデッサの階段”シーンだが、なにもアンタッチャブルでオマージュされた乳母車のおかげだけではない。

民衆は軍隊に追われ階段を降り逃げるも次々に銃弾に倒れるのだが。

エイゼンシュタインといえばショットと次々に繋ぐことで、モンタージュ理論をスクリーン上で再現しようとしたことで有名であるが、このオデッサの銃弾に倒れるシーンにおいては、倒れる民衆と狙い撃つ兵士たちのカットバックでありそうなところだがそうではないのである。

むしろ倒れる民衆、逃げ惑う民衆のショット郡の後に兵士たちのショットが来るのだ。


これぞエイゼンシュタインの映画的エモーションではないか!


【-4】地獄

・【-4】地獄 1999 石井輝男


超低予算なのは画面からありありと透けて見えるのだが、しかししっかりと撮られているので不思議に思い監督の名を見ると石井輝男とある。

あぁなるほどと納得する。

さすが手練れている。


しかし地獄の話はそっちのけで、とにかくオウムへの憎しみで満ちている。

社会問題は映画において背景であるべきだが、もはや社会問題ばかりが先行してしまっている。


オウムの件を除けば意外に良い映画なのだが。

【7】雨月物語

・【7】雨月物語 1953 溝口健二


ラストのオチは、現代映画ならばどんでん返しにしてしまうところであろう。

また、そんな安易な映画にどっぷりと浸かってしまっている人々にはこのラストが“なんと、実は死んでなかった!”といった類のどっきりオチに映ってしまうのではないかと思うのは杞憂か。


源十郎が家に戻ってきたとき、妻は死んでいたはずである。

しかし、なぜか息子とともにそこにいる。

囲炉裏を前に息子を抱きかかえる源十郎とそれを見守る妻、この斜めからの俯瞰はしかし冒頭で同じアングルで、同じシチュエーションでわれわれは見ているはずだ。

そして、さらに妻の背からロングショットで映るシーンは、源十郎が若狭姫に誑かされていたときのシーンと同じ構図なのだ。

つまり源十郎が再び暖かい家庭に居座れたと思われたシーンは、前半の貧乏でも幸せだったかつてのシーンと同時に、幽霊に誑かされるシーンとを同時に想起させるようになっている。


妻は最後に暖かい囲炉裏を囲むために源十郎の前に現れたのだ。

そのことは隠しもせず画面の前面からあふれ出ている。

死んでいる妻と最後の団欒を過ごしていることは観客にアラームされ、気づかされる。

だから悲しいのだ。

【7】甘い生活

・【7】甘い生活 1959 フェデリコ・フェリーニ


次々と一瞬前をぶつぶつ切っていく様はまるでゴダールといった感じだが、難解と言われるフェリーニ作品の中では比較的見やすい部類ではないか。


マルチェロ・マストロヤンニはいわば道化役で、本人が物語りに自発的に介在していくことがないのだが、絡む女性が交代するたびにカメラワーク、構図が変化するので、まるで章立てかのようにさえ感じる。


特にローマ遺跡での踊りシーンは絶世の美しいシーン。

この映画自体が“転覆”あるいは“倒錯”を狙ったものであると思われるが、このシーンでも如実。

つまり、シーンの舞台はローマ帝国時代の遺跡なのだが、全くローマ帝国顔らしからぬウェイターにローマ服を着せ、一方でメイクまでしてローマ顔になっているダンスの相手役には裏腹にディスコ服を着せている。

しかもご丁寧にローマ時代の顔の彫刻を傍に並べている。

そもそもローマ遺跡でディスコという行為自体が象徴的である。

もしかすると“倒錯”というよりむしろ、ローマの今昔を時系列なしにワンスクリーンに圧縮しようとしたのかもしれない。


序盤は女性のなすがままに振り回されるマルチェロ。

サングラスを外せとのマスコミの要望に切れる女優に、サングラスを外されるマルチェロなのだが、しかし最後の最後に到っては急激にMからSへと転じる。

この転覆から、砂浜への少女との聞き取れぬ会話のやり取りへと続くのだが、このシーンも冒頭のヘリコプターに乗った男性と屋上で日光浴をする女性との聞き取れぬ会話との対比であり、ここでも聞き取れぬ側―つまり目線―は女性から男性へとシフト、転覆するのである。

いや、この映画のセオリーからすれば男性へとシフトしているはずなのだが、このラストシーンでのカメラは最後にマルチェロの背を映しながらも解きはなってしまう。

その解放と感傷の余韻にわれわれはやられてしまうのだ。

【4】ヘルハウス

・【4】ヘルハウス 1973 ジョン・ハフ


ロバート・ワイズの「たたり」の真っ当な継承作品。

やはり幽霊よりも精神媒体になる女の恐怖の顔が怖い映画。


時系列を示すためにシーンごとに年月日のテロップが出るのだが、これが意外にも効果を挙げる。

呪われた家に纏わる恐怖を克服し、物語が終着に向かうと思った次の瞬間、この年月日のテロップが出ることで事は未だ解決されていないことを明示する。

光を見たと思った瞬間に闇の奈落に落とされるわけだ。


という意味では、「たたり」のリメイクは他に数あれど、「ヘルハウス」の継承映画は「リング」なのである。