たすけびと、かんしゃびと

たすけびと、かんしゃびと

腎臓をわずらい、家族からの提供により、かつて腎移植をおこないました。苦しい治療を受けながらも、周囲の人々の優しさにあふれた日々への感謝を綴っていきたいと思っています。

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今年に入り綴ってきた「はは あね つま  かんしゃびと」ですが、今回が最終回です。お読みくださっている皆様には、心から感謝をいたします。

今日は、母との別れ、そして、母を送る京都への旅について書きます。

 

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はは あね つま  かんしゃびと

母との別れ

 

私が結婚して、仲睦まじく3人で暮らしていましたが、私が36歳の時です。

母が山の田んぼへ朝食の前に出かけ、坂道を登っている時、胸が苦しくなり、なんとか在所の一番近い家へ助けを求めてたどり着きました。

その家から私の家へ連絡があり、妻が車で駆けつけ乗せて帰りました。

私は留守にしていましたので、帰るのと同時でした。

母の青い顔を見て、これはただ事ではないと思い「救急車を呼ばねば」と電話しました。

すぐに救急車が来て、担架に乗せてもらい、私も側に乗り込み、救急隊員の方に「厚生連高岡病院へ通院しているから行ってほしい」とお願いしました。

「分かりました。すぐに連絡して行きます」と言ってくださり、間もなく到着しました。

 

 

すぐに診てくださり、主治医の先生が母を見るなり

「これは心筋梗塞だ、すぐに入院しなければならない」と言われました。

病室へ急いで入室させてもらい、酸素吸入が始まりました。

一応は落ち着きましたが安心はできません。

 

その後、心電図や画像検査など行われ、先生が「このような状態なら安静にして酸素吸入をし、点滴をしていれば回復するでしょう」と言われましたが、母は苦しんでいます。

側に付いて居なければならないと思い、私と妻が二人で付き添っていました。姉たちにも連絡をするとみんな来てくれ、元気だった母の変わりように驚いていました。

 

非常に蒸し暑い日が何日も続いており、当時の病室には冷房装置がなかったので、母も私たちも辛い温度と湿度でした。

2日目になると私たち2人ともふらふらになりました。

姉たちがそれを見て、「私たちが代わって付き添うから、あなたたちは家へ帰って休まれ」と言ってくれたので、一晩家へ帰り休みました。

 

次の朝、病院へ行きますと母の状態が前とあまり変わりなく感じましたが、昼過ぎあたりから今までよりも、苦しんでいるように思い、私は看護師さんに訴えました。

「母は今までより辛いのではないでしょうか?」

「先生に聞いてみますから少し待ってください」と言われ、待ちました。

先生は間もなく来てくださり、難しい顔をされました。

「調べてみます」と言われ、色々検査されました。

「検査結果をお話しますので、こちらの部屋へ来てください」と呼ばれ、妻と二人で行きますと、先生は

「心臓の状態が悪くなっています。難しいかもしれない」と、心電図と画像診断の結果を見せてくださいました。

 

「本人が欲しいというものを、飲んでもらうなり、食べさせてあげてください」と言われました「少しだけですよ」と。

 

私たちは先生の言葉に大変シヨックを受け、それでも気を取り直して病室へ戻り、母に「何か飲みたい…?」と言いますと、

「冷たいスイカを食べたい」と母は言いました。

病院の前の青果店へ行き、スイカを買ってきて小さく切り、口に入れますと、なんとか食べてくれました。

母は「おいしかった」と言いました。私達は言葉が出ません。

 

 

次の日、母は治療や看護、介護の甲斐なく、安養浄土へ旅立ちました。

妻は母の側で泣き叫びベッドにすがりついて離れませんでした……。

私も辛く悲しい思いでいっぱいでした。

親戚の方が来てくださり、母といっしょに家へ帰りました。

母は家へ無言の帰宅をしました。

 

次の日通夜を勤め、家は親戚、縁のあった方々、仕事の付き合いの方など、お参りの人が大勢来てくださり、感極まりました。

私はなんとか皆さんに、お参りを頂いたお礼の挨拶をして、通夜を終えました。

翌日葬儀がとり行われ、焼香が済み、花を手向け出棺となると、さすがに悲しさを堪えるのが限界でした。

なんとか初七日の法要が済み、お寺さんが帰られ、しばらく親戚の方と話をして親戚の方が帰られますと、妻と二人だけになりました。

私は堪えていた涙が溢れてきました。

 

母は享年67歳でした。大変な一生をおくったと思います。

 

 

本願寺へ納骨

京都への旅

 

母の納骨を無事に済ませてからしばらく経った、11月の中旬。

生前母が「私が浄土へ往ったら、京都の本山、西本願寺の大谷本廟へ分骨してほしい」と言っていたので、姉たちに相談しました。

話がまとまって、お手次のお寺に手続きをお願いしました。

 

参加する人数を考え、本山に隣接する門徒会館に宿泊を決めて、交通の手段など考えると、車2台は必要です。

私の家にはブルーバードと軽自動車がありますが、小さい車は高速道路を走るため使えません。兄弟の車も軽自動車ですから無理だと考え、悩んだ末、長姉、映子の長女に頼んでみようと思いました。

 

当時、姪はファミリアに乗っていました、赤色の車です。

私は「私たち兄弟と一緒に、京都へ行ってもらえないか」と、車の事も頼みました。

「うん、いいよ。私の車も出して父、母と、一緒に朝子叔母さんも乗せていくよ」と言ってくれました。

乗っていく車の割り振りが決まりました。

 

 

 私は、妻と末姉、綾子夫婦を白のブルーバードに乗せての出発です。

もちろん大事な亡き母の分骨した遺骨を、ダッシュボードのボックスの中に、大事に乗せてあります。

 

 出発の朝9時、私の家から白と赤色の車、2台連ねて発車です。

北陸自動車道を小矢部インターから上がり、米原ジャンクションまでは一本道。途中パーキングエリアで十分休憩と食事を摂りながら、2台の車は順調に名神自動車道路に入りました。

 しばらく走り、京都東インターまで進み、高速を下りました。山科を過ぎるとすぐに大谷本廟です。非常に分かりやすく、2台の車は順調に到着しました。姪は若くて経験が浅いのに、なんなく後を付いてきてくれました。

 

 

 納骨堂は立派な構えになっており、上がり下りは全てエレベーターです。お手次のお寺が手続きをしてくださったので、納骨をつつがなく済ませる事ができました。

感謝し、有難い思いでいっぱいになりました。

母の安寧を念じて、子としての役目を果たせ、母の生前の願いを叶える事ができて安堵の気持がわきました。

 

 気持ちに余裕ができたのか、周りの紅葉がとても美しく目に飛び込みました。近くには東山が明るく輝き、その向こうには北山が続き、千年の都の向こうは西山の山並みが、遠く視界いっぱいに広がり、歴史の重さと、信仰の聖地としての神々しさが感じられ、心に深く伝わります。

心が和みました。

皆、安堵の表情です。

 

 一休みして、あと少しで浄土真宗本願寺派の本山です。

大谷本廟を下りて五条通りを堀川通りの交差点まで進み、左に曲がればすぐに右手に本山が見えてきました。5時間あまりの余裕のある旅でした。

 門徒会館へ入り、受付を済ませ部屋に落ち着きました。2部屋を用意してありましたので、女性と男性に分かれて部屋に入りました。先ずは阿弥陀堂と御影堂でお参りを済ませ、今日の予定は終了です。

 

 皆で車座になり相談しました。「明日、半日、時間に余裕があるから、嵐山へ行き渡月橋を渡たったりして、観光に行こう」と話が進みます。「車で行くのも危ないから、のんびり電車で行った方が良い」と決まりました。

 

 

 2日目の朝、朝のお勤めが済み、朝食をいただき休みをとって、出発です。嵐山方面行きの電車の駅まで、京都の街を8人で散策しながらのんびりと歩き、途中、壬生寺を拝観しました。

 目的の電車の駅に迷わず着き、ほどなく乗り込み走り出しました。

ガタン、ゴトンと懐かしい音を聞きながら、ゆったりとした気分になっていると、数個目の駅で、幼稚園の園児たちが、元気よく20人ほど乗ってきました。一度に車内がにぎやかになり、私たちは初めてですので目を丸くしていましたが、2駅で子供たちは一斉に降りていき、水が引いたように静かになりました。私たちは顔を見合わせ笑い合いました。

 

 嵐山へ着き、天竜寺を拝観。石廷が素晴らしく魅了しました。

ぐるりと回って、千坪はあると言う池、極楽を顕したといわれる庭園も素晴らしく感動しました。

 それから目当ての、渡月橋を渡り、雄大な紅葉を堪能し、とても満たされた気持になりました。皆も満足したようです。

 

 みやげ物を買って、本願寺の門徒会館へ来た道を帰り、会館の前に駐車してある車に荷物を載せました。西本願寺門前の商店街を散策して食事を済ませて車に戻り、点検をして。

「もと来た道を帰ろう」と皆に言い、帰路に付きました。

 

 帰り道、ブルーバードとファミリアも小休憩をとりながら順調に走り、トラブルもなく我が家へ帰ることが出来ました。

車を出して運転してくれた姪に心からお礼を言い、運転の確かさに感心し感謝しました。

 

 

母を送る京都への旅は、美しく、忘れられない思い出として、私たちの心深くに残りました。  

 

 

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最後に、私のその後の生業となった農業について、里山の暮らしの変化について、少し触れさせていただきたいと思います。

 

農業の転換点

 

昭和58年ころ、この時代は農業の大きな転換時だったのです。

田植は田植え機になり、歩行型が出回り、私も、その型の一輪タイプを使っていました。しかし、どうも体形に合わないのか、上手く真っ直ぐには苗が植わりません。

それで悩んでいた時に、農機具の販売店に五条の乗用型の1年だけ使った田植え機があるのを見つけ、店の方に相談しました。

思ったより安いので、私は買う気になり商談がまとまりました。

自分が見初めた機械ですので、田植が楽しくなり気合が入ります。

苗を真っ直ぐに植えられるようになり、作業が五条型ですし、真っ直ぐに糸縄をピーンと引いたように植わり、どんどんはかどります。

 

刈り取りの方もバインダーの刈り取りから、あっと言う間に乗用型のコンバインに変わり、秋の刈り入れが桁違いに効率が上がりました。

田んぼで刈り取り、麻袋に入れ、すぐにもみが乾燥機に入りますから、あれだけ母と苦労した稲架作りから、稲架がけがなくなり、革命的に進歩しました。

私も積極的に変化と進歩に付いて行きました。

 

里山の暮らしでも、農業は段々脇役になり、農業の機械化が進み時間に余裕が出来ますので、働きに出る仕事が主力になっていきました。

私も仕事に出るのが主になり、生活様式が大きく様変りしました。

一家に車が2台、3台が普通の時代となり車に感心が向きます。

これも皆、先人のお蔭と感謝の日々を送っています。   (了)

 

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「はは あね つま かんしゃびと」を書き終え、ここまでお読みくださった方々に、心から感謝申し上げます。

 私は戦後まもなくこの世に生を受け、両親や姉の愛情を受け育ちました。成長期は現在とは違い、とても長閑な環境の中で、贅沢ではありませんが、のびのびとした幼年期を過ごしていたのだなと思います。

子供たちは何にも束縛される事はなく、在所の中を思う存分遊びまわっていたのが思い出され、多くの人に見守られていたのだと気付きます。

 

 少年期の一番の思い出は、お獅子の天狗をつとめたことです。

なかなか上達をしない私を、青年団はじめ大人の方が根気強く教えてくださいました。感謝しなければなりません。

 先輩方の温かい見守りや教えは、今の時代では考えられないほどありました。先輩方の優しさを自分たちが十分引き継いでいないのでは、と考え反省の余地があると思います。

 

 私の家庭は母子家庭でしたので、姉たちはとても苦労をしたと思います。家族皆で私を育ててくれたと感じています。

皆の支えがあったからこそ、今日の自分があるのだと感謝の気持ちで心が溢れます。

 

そのうち、近況や別の思い出についても新たに投稿するかもしれません。

その時はまた、ぜひお読みいただけたら幸いです。

 

 

山口芳久

 

現在もリハビリに通っている、さくら苑の壁飾りと、

家の裏に咲いた梅の花を撮りました。

 

 

 

暖かい日が増えてきました。いよいよ明日から3月ですね。

どの国のどの方も平和で幸せに過ごして欲しいと思いながら。

今日は、母との思い出について書きます。

 

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はは あね つま  かんしゃびと

母の頑張り

姉たちと私の結婚

 

母は3人の姉たちが二十歳を過ぎますと、婚期を逃さぬようにと結婚を積極的に勧め、年の順番に結婚していきました。家は段々寂しくなります。3番目の末姉が結婚式の朝、私に言いました。

「今日、私は家を出るけど、母ちゃんを大事にしてあげてね」としっかりした口調で言いました。

年の若い私にも、嫁ぎゆく日の姉の気持ちが伝わり、胸にじんときました。

 

母は、父がいない分、大変な頑張りで毎日を過ごしていました。

朝は暗いうちから飛び起き、畑や田んぼの仕事、山仕事など、2人分働いていました。家へ帰るのは暗くなって、だいぶ経ってからでした。

 

特に田んぼの仕事は大変で、男手がなければ出来ない事もあります。

いちばん大変なのは、秋の稲の収穫の時、稲を掛けて干す、稲架(はさ)を組み立てる作業です。

母は3人の男の方に早い時期から頼んでいました。3人の方々は快く来てくださり、1日に何枚もの稲架を組み上げてくださいました。

 

稲架を組むのはとても大変な作業です。

まず田んぼに昨年の稲架掛けの穴を探し、埋めてある稲藁を掘り出して、その穴に稲架木を立て藁で固定してから、横段の竹を縛り付けていくのです。

その後、横に倒れないように、斜めの支え棒を左右に縄で固定して仕上がりです。母の力ではとても出来ません。  

私が15歳になるまで、毎年3人のお方が稲架を組み立てに来てくださいました。感謝しています。

私が見て覚え、稲架を自分で組み立てられるようになった時、母は、それは大変喜んでくれました。

 

私が23歳の時、隣在所の幼馴染みだった妻に結婚を申し込みました。

彼女は19歳でした。彼女の家族は「2人とも歳が若すぎる」と言われましたが、何度も粘り強く足を運び説得しました。

何度目かに「そんなに望まれるなら結婚しても良いだろう」と言っていただき、結婚しました。母や姉たちは喜んでくれ、私たち夫婦も幸せを感じていました。

私たち二人もいろんな仕事をするようになり、少しは母の負担も少なくなったようです。

それでも母の頑張りは、ずっと続いていました。

 

孫が7人、男の子4人と女の子3人が10年の間に生まれ、「ばあちゃん、おばあちゃん」と言って遊びに来てくれます。

母はいつも、にこにこと「来たか、よう来た」と言って喜んでいました。

家の仕事を私や妻がするようになったので、母は「働きに出る」と言い、出て行きます。私が「そんなに頑張らなくてもいいのに」と言いますと、「これからは孫にやりたいから仕事に行く」と言います。

そんな、幸せな時が続きました。

この十数年あまりが、私が知る母の一番幸せな時期だったと思います。

 

東京の叔母の家へ

 

私が30歳の頃でした、清々しい天気が続く秋でした。

稲の刈り入れもはかどり無事に済んだ頃、私が

「車で、東京の叔母さんの家へ、柿を積んで遊びに行こう」と、母と妻に発案しました。

「東京までこの車で行けるの?」と、母はとても喜んでくれ、勤めが休みの時に行く打ち合わせを東京の叔母夫婦としました。

 

連休の朝早く、助手席には妻、後ろの席に母を乗せて出発です。後ろのトランクにはたくさんの柿や野菜など満載していました。

順調に国道8号線から18号線を進みます。広い後ろの席で、母は安心しきった様子で横になっていました。

 

小休憩や食事を摂りながら道のりは400キロ以上ありますから、先を急いで碓氷峠のカーブを下っていますと、後ろの右サスペンション辺りからバシッと異音がしました。

私はすぐに気付き、トーションバーが折れたと思い、車を道の端に寄せ降りて見ますと、明らかに右後ろが下がっています。これは困ったと考えました。

 

当時は現在とは違い、JAFには入っておりませんし、そっと走って、国道沿いですからディーラーがあるはず、と慎重に運転しました。

しばらく走るとスバルのディーラーの看板が見え、飛び込みました。

連休ですので修理工場は開いていませんでしたが、店の休日出勤の方が応対してくださり、事情を話すとすぐ理解してくださり、

「このスバル1000は、リヤサスペンションはトーションバーが折れても車輪は外れない構造になっているから、そっと走るのは大丈夫ですよ」と言われました。

 

富山ナンバーの車で、見ればそんなに旅慣れた様子でもないようだし「どこまで行くのですか?」と心配そうに尋ねてくださり、私は「東京北区の東十条まで行きます」と応えました。

すると店の方が「始めて行くのですか?」と聞かれ、「そうです初めてです」と応えますと、「この時間からは暗くなってくるし、無理ですね」と言われ、しばらく考えておられました。

 

はっと、気が付かれたように「行き先の電話番号知っていますか?」と言われたので、私は「紙に書いて持っています」と、メモを渡しました。

店の方は電話を掛けてくださり、叔母の家には私と年の近いいとこがいますので、私たちの事情を伝えて、戸田橋まで迎えに来てもらえるよう話してくださいました。

私たちは、親切なスバルのディーラーの方に篤くお礼を言い出発しました。

 

しばらく走りますと、戸田橋は思ったより近く、橋を渡り切った所で、私にそっくりないとこに会えました。初対面でしたがすぐに分かりました。

私は「はじめまして。山口です」と挨拶をしますと、「岡里です。遠いところをよく来てくれましたね。家へ向かいましょう」と言ってくれました。いとこは「交通事情を考えてバイクで迎えに来た」と言い、「後を付いてくるように」としばらく走りますと、車を十分に停められるスペースがある家へ着きました。 

 

私たちは胸をなでおろし、叔父と叔母、もう1人いとこの女の子の康子に挨拶をして、再会を喜び合いました。

叔父と叔母は、いとこの女の子を連れて私の家へ来たことがありますので久しぶりです。話は弾みますが、叔母が「今日は疲れているから話は明日にしましょう」と言い、休みました。

私達3人は朝までぐっすりと眠りました。

 

叔父さんといとこはヘアアクセサリー等を製造していて、いつも在宅でした。私は碓氷峠でのトラブルを話し相談しました。いとこの昭夫は、スバルの車はⅠ商事が扱っているから、相談して修理を頼んであげると言ってくれ、お願いしました。すぐに車を取りに来てくださり、安堵しました。

 

それから3日間、東京の名所などをいとこの運転するカローラで案内してもらい、皇居の二重橋や東京タワー、羽田空港など、あちらこちらを見物しました。母は初めてでしたのでとても感動して喜んでくれました。

当時でも東京の道は車が混んでいて、交差点を通過するのには二信号か三信号、待たねばなりませんでした。

いとこは「車で移動するのはいつもこんなものだ」と言い、「用事はなるべくバイクで済ませるようにしている」と平然としています。富山の私達の所もやがて同じようになりましたが。

 

次の日、叔母が「十条銀座へ買い物に行くから一諸に行こう」と誘ってくれました。いそいそと私たち3人が付いて行きますと、

商店街は食料品があふれるほどあり、叔母が「何か食べたいものある?」と言うので「寿司を食べたい」と言いますと「ここのお寿司はおいしいのよ」と言って買ってくれました。

 

そんな長閑な日が3日目になり、叔父やいとこの仕事を見せてもらっていると、「車が直りました。今から持って来ます」と連絡があり、間もなく車が戻って来ました。綺麗に仕上がっており、整備の方にお礼を言い支払いを済ませました。

「長居をしていますので、明日朝早く、五時に出発したい」と言い、決まりました。

次の日、朝早く起きますと、いとこは「バイクで戸田橋の近くまで案内するから、後を付いて来て」と言ってくれました。皆さんに「ありがとうございました。楽しかったです」と別れを告げ、見送ってもらいました。

戸田橋まで送ってくれたいとこに、車の窓越しに篤くお礼と感謝を言って別れました。

 

アクセルを踏み、走りだします。

思い出の橋を渡り東京を離れ、快調に碓氷峠を登り、途中休憩と食事を摂りながら楽しくドライブして進んでいきます。

母は後ろの席で、まかせきりで安心した様子でぐっすりと寝ておりました。

帰り道は何のトラブルもなく無事に家に着くことが出来ましたので、家族で労い合い、安堵し休みました。

思い出深いこの旅は、リヤサスペンションの大きなトラブルがありましたが、事故等なく、その他は皆さんに助けてもらい、無事に終えることが出来ました。

 

自宅で育てている、通称・金のなる木がかわいい花を咲かせています。

今日は、私の地元の伝統の獅子舞のことについて書きます。

皆さんの地域のお祭りはどんな雰囲気でしょうか?

ぜひ読んで比べてみてください。

 

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はは あね つま  かんしゃびと

獅子舞の天狗に 

 

 私の集落には伝統の獅子舞がありました。

ある日、私に、獅子舞の天狗をやらないかと青年団から誘いがありました。

母も「やりなさい」と言うので、秋祭りの3週間前からの練習に行くようになりました。

出かける時は良いのですが、終わって帰る時、暗い夜道を一人自転車で帰るのが怖くて悩みの種でした。

 

 獅子舞の天狗のことを通称で「棒使い」と呼びます。

通常、小学校2年生から始めて中学2年生まで、青年団の世話役が責任を持って世話をしてくださるのです。

ほとんどマンツーマンで教えて下さる方が決まっています。

私の担当は前山さんといって、とても優しい方でした。

もちろんほかの方も知らぬ顔はしていません。時にはお囃子の人も総出で、1時間近く教えてくださることもありました。 

 

しかし、私はなかなか笛や太鼓に合わせて手足を動かすのが難しく、自分でも懸命に頑張りますが上達しません。

「父親がいないから、昼間に家での練習が出来ない。だから時間がかかって上手くなれないのだ」と母は言いました。

だけど私はやる気満々です。

夕方になると早く食事を済ませて、暗くなって太鼓の鳴るのをまだかまだかと、聞き耳をたてて待っていました。

雨の日は練習が休みなのです。そんな日は寂しく、つまらなくて滅入ってしまいます。

 

 何があっても祭りの日は来ます。最後の練習の晩は、ひと通り練習をしたら、甘酒やジュースとお菓子が出るのです。天狗の子供たちは喜んでいただきます。

あとは明後日の本番を待つだけです。

 

 1日休んで、祭りの朝が来ました。私が天狗の衣装を取りに行ってきますと、3人の姉たちが家で待ち構えています。日ごろ「ぼんや、ぼんや」と呼ぶやんちゃ坊主がしおらしくしているので、顔にお白粉を塗って、口紅でこうべと、ほおに赤い丸を描き、赤い衣装を着せるのが面白いらしく、先を争うように着せてくれます。

最後は、脚絆を着け、足袋を履きわらじも履いて仕上がりです。

 

 いよいよ皆が集まる時間です。お獅子の宿の家の前で、笛、太鼓が鳴り響き、八幡宮からの合図を待ちます。皆の気分が段々盛り上がってきます。

八幡宮からの合図がきますとお囃子が「道中太鼓」に変わり、それに合わせ剣を担いだ小天狗が先頭に繰り出し、しばらく歩くと、狭い集落ですからすぐに八幡宮に着きます。

参道の鳥居をくぐった所まで進んで、一番若い小天狗が二人、向かい合ってお獅子の前で中腰になり、剣を空へ向けて構えて待ちます。

「それ!」と獅子頭を持った人から合図の声がかかり「大門ゆさぶる」という舞いで始まりです。

少しずつ前後しながら拝殿の方へ進んでいき、頃合をみてお囃子の拍子が変わって早くなり、天狗は、剣をクルクル回して石段の前まで走り込み左右に分かれます。

するとお獅子は階段を駆け上がり、拝殿で伏せた姿勢で、宮司さんのお払いを受け御幣を付けてもらいます。厳かな雰囲気が漂います。

 

 しばらくするとまた笛、太鼓の調子が変わって早くなり、お獅子が頭から立ち上がりUターンして舞い降りてきます。

そこでお囃子が「ヤッサカ」という勇ましい拍子になり、待ち受けていた大天狗と対峙して切込みから始まると、一度に境内は盛り上がり、最高潮になります。

この時の感動は、今も鮮やかに甦ります。

 

 それが終わりますと、「小天狗の二足」という舞があります。

宮司さんより獅士方若連中に華が打たれ、それに応えて「中天狗の一足」、「ばえ返し」に続き、それから相当たくさん華が披露され、舞われると、最後は小天狗二人の「七五三」で終わり。

帰りは小天狗が、お獅子の胴幕の中の人に肩車をしてもらい、境内が拍手と歓声で沸きます。「道中太鼓」で鳥居まで来て、八幡宮の奉納の獅子舞は終わります。

 

 それからは、在所の中をぐるりと一日かけてのんびり楽しく回ります。天狗の子供たちと、お獅子に付いて回っている子供たちは、太鼓の台車を曳く役目です。梨や、ぶどう、ジュース、お菓子などたくさんもらって、食べたり飲んだり、大人ももちろんお酒を振舞われ、みな楽しい一日です。

在所を半分ほど回ると昼の時間になり、お獅子を預ける家へ舞い込み、玄関で当主に獅子を預けると昼休憩です。

めいめいが家へ帰り食事をし、1時間程度で再開します。

 

新婚さんの家へ初めて舞いに行く時は、玄関へ舞い込みますと、そこを通り過ぎ奧の新婚さんの部屋まで入って、ひとしきり出てきません。

大分時間が経ってからおもむろに出てきて、天狗の子供たちは驚いてあっけにとられてしまいます。

 

 

獅子殺し

 

 集落を一巡すると、日が暮れて暗くなってきます。

いよいよ、「獅子殺し」の始まりです。

獅子殺しの天狗役は大人の方々が舞われます。

私たち子供の天狗は、その時点で役目は終わり。その頃になると子供心にも安堵の気持でいっぱいです。

姉たちが着替えをもって来てくれるのが嬉しく、駆けよっていき、天狗の衣装は獅子殺しを舞う大人が鉢巻、たすき等、使いますから脱がねばなりません。

一日着ていた衣装を脱ぐと、大事な一日が終わったのだと思う気持が疲れに出るのか、姉たちに寄りかかるようにして、獅子殺しの始まるのをむしろの上に座って待ちます。

 

 いよいよ獅子殺しの始まりです。期待でいっぱいで会場が静かになります。獅子殺しは、勇ましい「ヤッサカ」で始まり、途中で大天狗の目付きが変わります。

天狗の切り込みの時、鋭い気合と掛け声で獅子を刺し、それからお囃子の調子が変って、お獅子が座った姿勢で負傷した状態になります。獅子は頭を震わせ天狗の行く先を追い、胴のかやの中の人はかがんだ姿勢で手を小刻みに震わせ続ける。それを大天狗が、お獅子の回りを廻りながら胴のまん中を切ったり、しっぽを叩いたりさかんに攻撃を続け、とどめを刺す時を辛抱強く、間合いをはかるようにしています。

 

ついに大天狗の決断の時がきました。

 

大天狗は、一度退いて日本刀を持って現れ、日本刀は体の陰に隠してお獅子には見せません。すり足で獅子の頭に近づき、鋭い気合と太鼓の大きい音とともに頭を切り付けつけます。

お獅子の頭は地面へ堕ち、大天狗は日本刀を頭上で振りかざしながら、お獅子の回りをぐるぐる何度も力を誇示するように回り、そして大天狗は1度さがります。

 

今度は中天狗が出てきて、大天狗の真似をして観衆を笑わせます。おかめや、ひょっとこが登場し愛嬌を振りまきます。

しばらくしてまた大天狗が登場し、まだまだ攻撃をし頑張り続けてから、頃合をみて獅子の胴を切ったりしっぽを触ったりした後、

とうとうお獅子の頭に腰掛けました。

 

するとその時、獅子の頭がブルブルと動いて大天狗はびっくりし、飛びのいてひっくり返りますが、胸をなで下ろします。その真に迫った演技に会場は最高潮に達します。

 そからもう一度、大天狗は立ち上がり、胴を切ったりしっぽをいじったりをくり返し、時間をかけてから再度お獅子の頭に座りますが、今度はもう動きません。

大天狗は勝ち誇ったように頭上に日本刀振りかざし、お獅子の回りを回り続けます。そして獅子が動かないのを確かめてから、剣の柄で一気にしっぽから順々に胴膜の中の人の頭を軽く叩き、起すのです。

 

お獅子は立ち上がり、それから「ヤッサカ」を舞って切り上げ、お獅子が大天狗の差し上げる剣を一度くわえて終了です。

拍手が沸き、安堵の気持が会場をつつみます。

 

 

最後は厳かな、お獅子のおかみ剃りです。

屈強な青年が、左手に獅子頭を持ち右手に日本刀を構え、囃子方のお神楽に合わせ獅子頭を小刻みに震わせながら、お獅子の顔を剃ります。

それが終わると介添えが刀を受け取り、舞い込みのお囃子に合わせ玄関に舞い込んで、祭りは終わるのです。

 

 

小さい子供が「お獅子生きているよね…」と母親に言っています。

すると、お母さんは「お獅子は生きているよ」と子供に言います。

 

 

私も子供でしたが、この時のことが鮮明に記憶に残っています。

 

 

それから私は毎年天狗をつとめました。小天狗から、中天狗、大天狗と、皆さんの助けをいただきながら続けることが出来しました。

感謝の気持でいっぱいです。

 

お天気のいい朝、立山連峰からの出の瞬間です。

 

友人から差し入れのイチゴ。美味しくいただきました。