今年に入り綴ってきた「はは あね つま かんしゃびと」ですが、今回が最終回です。お読みくださっている皆様には、心から感謝をいたします。
今日は、母との別れ、そして、母を送る京都への旅について書きます。
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はは あね つま かんしゃびと
母との別れ
私が結婚して、仲睦まじく3人で暮らしていましたが、私が36歳の時です。
母が山の田んぼへ朝食の前に出かけ、坂道を登っている時、胸が苦しくなり、なんとか在所の一番近い家へ助けを求めてたどり着きました。
その家から私の家へ連絡があり、妻が車で駆けつけ乗せて帰りました。
私は留守にしていましたので、帰るのと同時でした。
母の青い顔を見て、これはただ事ではないと思い「救急車を呼ばねば」と電話しました。
すぐに救急車が来て、担架に乗せてもらい、私も側に乗り込み、救急隊員の方に「厚生連高岡病院へ通院しているから行ってほしい」とお願いしました。
「分かりました。すぐに連絡して行きます」と言ってくださり、間もなく到着しました。
すぐに診てくださり、主治医の先生が母を見るなり
「これは心筋梗塞だ、すぐに入院しなければならない」と言われました。
病室へ急いで入室させてもらい、酸素吸入が始まりました。
一応は落ち着きましたが安心はできません。
その後、心電図や画像検査など行われ、先生が「このような状態なら安静にして酸素吸入をし、点滴をしていれば回復するでしょう」と言われましたが、母は苦しんでいます。
側に付いて居なければならないと思い、私と妻が二人で付き添っていました。姉たちにも連絡をするとみんな来てくれ、元気だった母の変わりように驚いていました。
非常に蒸し暑い日が何日も続いており、当時の病室には冷房装置がなかったので、母も私たちも辛い温度と湿度でした。
2日目になると私たち2人ともふらふらになりました。
姉たちがそれを見て、「私たちが代わって付き添うから、あなたたちは家へ帰って休まれ」と言ってくれたので、一晩家へ帰り休みました。
次の朝、病院へ行きますと母の状態が前とあまり変わりなく感じましたが、昼過ぎあたりから今までよりも、苦しんでいるように思い、私は看護師さんに訴えました。
「母は今までより辛いのではないでしょうか?」
「先生に聞いてみますから少し待ってください」と言われ、待ちました。
先生は間もなく来てくださり、難しい顔をされました。
「調べてみます」と言われ、色々検査されました。
「検査結果をお話しますので、こちらの部屋へ来てください」と呼ばれ、妻と二人で行きますと、先生は
「心臓の状態が悪くなっています。難しいかもしれない」と、心電図と画像診断の結果を見せてくださいました。
「本人が欲しいというものを、飲んでもらうなり、食べさせてあげてください」と言われました「少しだけですよ」と。
私たちは先生の言葉に大変シヨックを受け、それでも気を取り直して病室へ戻り、母に「何か飲みたい…?」と言いますと、
「冷たいスイカを食べたい」と母は言いました。
病院の前の青果店へ行き、スイカを買ってきて小さく切り、口に入れますと、なんとか食べてくれました。
母は「おいしかった」と言いました。私達は言葉が出ません。
次の日、母は治療や看護、介護の甲斐なく、安養浄土へ旅立ちました。
妻は母の側で泣き叫びベッドにすがりついて離れませんでした……。
私も辛く悲しい思いでいっぱいでした。
親戚の方が来てくださり、母といっしょに家へ帰りました。
母は家へ無言の帰宅をしました。
次の日通夜を勤め、家は親戚、縁のあった方々、仕事の付き合いの方など、お参りの人が大勢来てくださり、感極まりました。
私はなんとか皆さんに、お参りを頂いたお礼の挨拶をして、通夜を終えました。
翌日葬儀がとり行われ、焼香が済み、花を手向け出棺となると、さすがに悲しさを堪えるのが限界でした。
なんとか初七日の法要が済み、お寺さんが帰られ、しばらく親戚の方と話をして親戚の方が帰られますと、妻と二人だけになりました。
私は堪えていた涙が溢れてきました。
母は享年67歳でした。大変な一生をおくったと思います。
本願寺へ納骨
京都への旅
母の納骨を無事に済ませてからしばらく経った、11月の中旬。
生前母が「私が浄土へ往ったら、京都の本山、西本願寺の大谷本廟へ分骨してほしい」と言っていたので、姉たちに相談しました。
話がまとまって、お手次のお寺に手続きをお願いしました。
参加する人数を考え、本山に隣接する門徒会館に宿泊を決めて、交通の手段など考えると、車2台は必要です。
私の家にはブルーバードと軽自動車がありますが、小さい車は高速道路を走るため使えません。兄弟の車も軽自動車ですから無理だと考え、悩んだ末、長姉、映子の長女に頼んでみようと思いました。
当時、姪はファミリアに乗っていました、赤色の車です。
私は「私たち兄弟と一緒に、京都へ行ってもらえないか」と、車の事も頼みました。
「うん、いいよ。私の車も出して父、母と、一緒に朝子叔母さんも乗せていくよ」と言ってくれました。
乗っていく車の割り振りが決まりました。
私は、妻と末姉、綾子夫婦を白のブルーバードに乗せての出発です。
もちろん大事な亡き母の分骨した遺骨を、ダッシュボードのボックスの中に、大事に乗せてあります。
出発の朝9時、私の家から白と赤色の車、2台連ねて発車です。
北陸自動車道を小矢部インターから上がり、米原ジャンクションまでは一本道。途中パーキングエリアで十分休憩と食事を摂りながら、2台の車は順調に名神自動車道路に入りました。
しばらく走り、京都東インターまで進み、高速を下りました。山科を過ぎるとすぐに大谷本廟です。非常に分かりやすく、2台の車は順調に到着しました。姪は若くて経験が浅いのに、なんなく後を付いてきてくれました。
納骨堂は立派な構えになっており、上がり下りは全てエレベーターです。お手次のお寺が手続きをしてくださったので、納骨をつつがなく済ませる事ができました。
感謝し、有難い思いでいっぱいになりました。
母の安寧を念じて、子としての役目を果たせ、母の生前の願いを叶える事ができて安堵の気持がわきました。
気持ちに余裕ができたのか、周りの紅葉がとても美しく目に飛び込みました。近くには東山が明るく輝き、その向こうには北山が続き、千年の都の向こうは西山の山並みが、遠く視界いっぱいに広がり、歴史の重さと、信仰の聖地としての神々しさが感じられ、心に深く伝わります。
心が和みました。
皆、安堵の表情です。
一休みして、あと少しで浄土真宗本願寺派の本山です。
大谷本廟を下りて五条通りを堀川通りの交差点まで進み、左に曲がればすぐに右手に本山が見えてきました。5時間あまりの余裕のある旅でした。
門徒会館へ入り、受付を済ませ部屋に落ち着きました。2部屋を用意してありましたので、女性と男性に分かれて部屋に入りました。先ずは阿弥陀堂と御影堂でお参りを済ませ、今日の予定は終了です。
皆で車座になり相談しました。「明日、半日、時間に余裕があるから、嵐山へ行き渡月橋を渡たったりして、観光に行こう」と話が進みます。「車で行くのも危ないから、のんびり電車で行った方が良い」と決まりました。
2日目の朝、朝のお勤めが済み、朝食をいただき休みをとって、出発です。嵐山方面行きの電車の駅まで、京都の街を8人で散策しながらのんびりと歩き、途中、壬生寺を拝観しました。
目的の電車の駅に迷わず着き、ほどなく乗り込み走り出しました。
ガタン、ゴトンと懐かしい音を聞きながら、ゆったりとした気分になっていると、数個目の駅で、幼稚園の園児たちが、元気よく20人ほど乗ってきました。一度に車内がにぎやかになり、私たちは初めてですので目を丸くしていましたが、2駅で子供たちは一斉に降りていき、水が引いたように静かになりました。私たちは顔を見合わせ笑い合いました。
嵐山へ着き、天竜寺を拝観。石廷が素晴らしく魅了しました。
ぐるりと回って、千坪はあると言う池、極楽を顕したといわれる庭園も素晴らしく感動しました。
それから目当ての、渡月橋を渡り、雄大な紅葉を堪能し、とても満たされた気持になりました。皆も満足したようです。
みやげ物を買って、本願寺の門徒会館へ来た道を帰り、会館の前に駐車してある車に荷物を載せました。西本願寺門前の商店街を散策して食事を済ませて車に戻り、点検をして。
「もと来た道を帰ろう」と皆に言い、帰路に付きました。
帰り道、ブルーバードとファミリアも小休憩をとりながら順調に走り、トラブルもなく我が家へ帰ることが出来ました。
車を出して運転してくれた姪に心からお礼を言い、運転の確かさに感心し感謝しました。
母を送る京都への旅は、美しく、忘れられない思い出として、私たちの心深くに残りました。
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最後に、私のその後の生業となった農業について、里山の暮らしの変化について、少し触れさせていただきたいと思います。
農業の転換点
昭和58年ころ、この時代は農業の大きな転換時だったのです。
田植は田植え機になり、歩行型が出回り、私も、その型の一輪タイプを使っていました。しかし、どうも体形に合わないのか、上手く真っ直ぐには苗が植わりません。
それで悩んでいた時に、農機具の販売店に五条の乗用型の1年だけ使った田植え機があるのを見つけ、店の方に相談しました。
思ったより安いので、私は買う気になり商談がまとまりました。
自分が見初めた機械ですので、田植が楽しくなり気合が入ります。
苗を真っ直ぐに植えられるようになり、作業が五条型ですし、真っ直ぐに糸縄をピーンと引いたように植わり、どんどんはかどります。
刈り取りの方もバインダーの刈り取りから、あっと言う間に乗用型のコンバインに変わり、秋の刈り入れが桁違いに効率が上がりました。
田んぼで刈り取り、麻袋に入れ、すぐにもみが乾燥機に入りますから、あれだけ母と苦労した稲架作りから、稲架がけがなくなり、革命的に進歩しました。
私も積極的に変化と進歩に付いて行きました。
里山の暮らしでも、農業は段々脇役になり、農業の機械化が進み時間に余裕が出来ますので、働きに出る仕事が主力になっていきました。
私も仕事に出るのが主になり、生活様式が大きく様変りしました。
一家に車が2台、3台が普通の時代となり車に感心が向きます。
これも皆、先人のお蔭と感謝の日々を送っています。 (了)
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「はは あね つま かんしゃびと」を書き終え、ここまでお読みくださった方々に、心から感謝申し上げます。
私は戦後まもなくこの世に生を受け、両親や姉の愛情を受け育ちました。成長期は現在とは違い、とても長閑な環境の中で、贅沢ではありませんが、のびのびとした幼年期を過ごしていたのだなと思います。
子供たちは何にも束縛される事はなく、在所の中を思う存分遊びまわっていたのが思い出され、多くの人に見守られていたのだと気付きます。
少年期の一番の思い出は、お獅子の天狗をつとめたことです。
なかなか上達をしない私を、青年団はじめ大人の方が根気強く教えてくださいました。感謝しなければなりません。
先輩方の温かい見守りや教えは、今の時代では考えられないほどありました。先輩方の優しさを自分たちが十分引き継いでいないのでは、と考え反省の余地があると思います。
私の家庭は母子家庭でしたので、姉たちはとても苦労をしたと思います。家族皆で私を育ててくれたと感じています。
皆の支えがあったからこそ、今日の自分があるのだと感謝の気持ちで心が溢れます。
そのうち、近況や別の思い出についても新たに投稿するかもしれません。
その時はまた、ぜひお読みいただけたら幸いです。
山口芳久
現在もリハビリに通っている、さくら苑の壁飾りと、
家の裏に咲いた梅の花を撮りました。





