昭和35年。・・夢去りぬ「霧島昇」。親父が好きな曲だった。母は、私が幼少のころ、肺結核で亡くなり私と親父の二人家族。俗に「父子家庭」。 

 

 

夢去りぬ

 

 

  夢いまだ さめやらぬ
  春のひと夜
  君呼びて ほほえめば
  血汐おどる
  ああ 若き日の夢
  今君にぞ通う
  この青春のゆめ

さめて散る花びら


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 押し入れからおもむろに出しては蓄音機の針を換え、78回転レコード盤がすり減るほど聞いていたのを記憶する。確かクランク状ハンドルで回転させるものだった。 
 レコード針は「サファイヤ」や「ダイヤ」のような高級なものはなく鉄製で2~3曲聞いたら雑音が入って交換しなければならない。
 蓄音機は横田基地の進駐軍の友人から譲り受けたそうだ。当時親父はGHQ横田基地への出入りを通訳で許可されており、私もよく連れて行ってもらった記憶がある。

 「クリスマス」や「横田基地日米友好祭」は必ず同伴した。マイルス・デイヴィスのジャズを知り、英語はそこで教わったやや引きこもり状態の小学5年生。

 

 


 

   親父という人間像を少しだけ素描・・・昭和157年ごろの話、お国の命令で、東京帝大入学時「国民勤労報国協力令」による勤労奉仕隊に変えさせられ、「中島飛行機東京工場」の軍需工場でプロペラの設計に従事していたと聞く。

 

 

 

 

 

 無口で、あまり表情を変えない人であり、親子の対話はほとんどなく、常に何かしら背中に影を持っていたようだ。私は子供ながらこんな時、おふくろさんが「生きていてくれたらなあ」と思いつつ、再婚して幸せであってほしいと言葉には出せないが、内心は強い願望があった。寂しさを紛らわすすべのない親父を見て涙を流したこともあった。

 

 

 

 


 しかしながら蓄音機の話になると人格ががらりと変わり電気屋の店員さんのようによく説明をする。レコードは親父の友人がキングレコードにいたせいか、譲り受けた「白ラベル盤」がたくさんあった。
 「夢去りぬって、夢が去ってしまったこと?、まだ去っていないの?」当時の親父の心情もかねてよく訊ねたものだ。親子の対話を止めたくはなかった。・・・私が19歳の大学2年の時、親父は事故でこの世を去った。親父の夢は何だったろうか、逝く前に聞いてみたかった。