奉天・山陽堂書店
瀋陽市中山路(奉天市浪速通22号)
竣工 1917年
設計 不詳
施工 不詳
撮影 ①2005年
現在は撤去済み
② 『奉天名勝写真帖』山陽堂書店1919年刊より
浪速通りにできた小さな三角地に建てられたこの店は、
再開発の波をくぐりぬけ、塔はなくなったが、
建物本体がほぼそのまま残っていた。
中国のネット情報などによれば
この奉天の山陽堂書店の老板(経営者)は植田梶太という人で、
書籍販売のほか、写真集や地図、絵葉書などを出版したが、
1922年に書店を「大阪屋号」という書店に譲り、
自身はこの店の二階で「山陽堂書画骨董店」を営んだという。
植田梶太氏については次のような記述がある。
「 〔満鉄奉天図書館から盗まれた〕ワイリー未刊草稿が、領事館の廃物処分の売り立てで、「三八」という古物屋に出されていることを通報したのは、奉天浪華通りで骨董店山陽堂を営む植田梶太であった。
「 〔満鉄奉天図書館から盗まれた〕ワイリー未刊草稿が、領事館の廃物処分の売り立てで、「三八」という古物屋に出されていることを通報したのは、奉天浪華通りで骨董店山陽堂を営む植田梶太であった。
植田梶太は明治8(1875)年3月岡山県吉備郡菅谷村の生まれ。明治28(1895)年近衛師団に入営、次に陸軍戸山学校に学び、義和団の乱で従軍する。また日露戦争では経理部員として広島師団司令部に勤務した。明治40(1907)年関東都督府警察官として奉天警察署勤務、在職6年の間に中国語を善隣書院で学ぶ。
大正2(1913)年退職して書店山陽堂を開業して図書・雑誌の販売と新聞の取次ぎを行なった。大正6(1917)年には浪華通りに大きな店舗を新築して営業するも大正11(1922)年12月には書店を大阪屋號に、新聞雑誌取次販売の権利を弘文堂に譲渡し翌12年美術店を開いて山陽堂書画骨董店と号した。店の2階には陳列室をつくって中国古代の美術工芸品のうち数百点を厳選して展観、当地の文化人たちと交流して楽しんだ。
奉天実業信用組合長・奉天岡山県人会副会長・奉天古物商組合長・奉天美術倶楽部理事を務めた。勲七等(『満洲紳士録』昭和12年、『奉天二十年史』昭和2年)。資料の購入や文物の消息などで日ごろから親しくしていたのであろうそんな交流が、この一大事の時にあたって大きな助けを呼ぶことになったわけであった。」
以上、京都ノートルダム女子大学ホームページより
なお東京の山陽堂書店のホームページには、
「山陽堂初代萬納孫次郎は、明治元年岡山城下旭川沿い船着町の商家のひとり息子として生まれました。明治21年(1888年)に上京して3年間は芝や京橋で新聞販売業に従事。」http://sanyodo-shoten.co.jp/history/index.html
とあるので、山陽地方の岡山県出身であること以外は特に関係はないようである。