春草 ふまれてもまたおひいつるわか草にみなきるはるのちからをそみる 武島羽衣
題字「愛吾廬」梁舟喜=一木喜徳郎
『読山海経』陶淵明(陶潜)
孟夏草木長 孟夏 草木長じ
遶屋樹扶疏 屋を遶りて樹扶疏たり
衆鳥欣有託 衆鳥は託する有るを欣び
吾亦愛吾廬 吾も亦吾が廬を愛す
遶屋樹扶疏 屋を遶りて樹扶疏たり
衆鳥欣有託 衆鳥は託する有るを欣び
吾亦愛吾廬 吾も亦吾が廬を愛す
(以下略)
大意
初夏になって草木が伸び、
我が家の周りには樹木が繁茂している、
鳥たちは拠り所ができたことを喜び、
わたしも自分の家が気に入っている
参考:HP『陶淵明 詩と構想の世界』
『住居』
発行年 1937年(昭和12年)
出版社 櫻文書院(豊島区池袋4-436)
著者 中村與資平
頁数:181ページ 別冊(付図)
定価 4円50銭(送料24銭)
題字を書いた一木喜徳郎は中村與資平の建築活動を支えた銀行家・竹山純平の実兄で、文部大臣、宮内大臣などを務めたが、1936年「天皇機関説」の支持者とみなされて当時務めていた枢密院議長を引責辞任しているので、陶淵明の詩を引用したのは実感がこもっているともいえる。
一木(いっき/いちき)は1934年に、実兄の岡田良平の跡を継ぎ、大日本報徳社4代目の社長に就任している。(なお「一木」の読みは出身地の一木家および大日本報徳社関係、武蔵学園などでは「いっき」と読み、文部省・宮内省などの役所関係の文書では「いちき」と振り仮名がつけられているが、なぜ使い分けていたのかは不明。公・私で呼び方を区別をしていたのだろうか)
武島羽衣(又次郎)の和歌をおまけのしおりにのせたのは、当時、共に実践女子専門学校で、授業を持っていたことによる縁で依頼したと思われる。また戦後、中村がビルマで戦死した次男の記念碑を郷里に建てた時も、その碑文を武島に依頼している。
実践女子専門学校(現・実践女子大学)で1924年から約20年間講義をした際使用したテキストの表紙。122ページ。
内容は1937年正式出版された『住居』とほぼ同じだが、後半の建築史の部分がなく、図版が別にあった模様。
出版年は記載されていないが、簡易な謄写印刷なので、正式に出版された1937年以前に印刷され、実践女子専門学校で講義テキストとして使用されたと思われる。