日本降伏
日本の第二次世界大戦、大東亜戦争終結は日本帝国の連合国(実質的にはアメリカ合衆国)ポツダム宣言受諾(1945年8月10日)から、玉音放送および日本軍の戦闘停止(8月15日)、降伏文書署名(9月2日)に至るまでの過程を指し、本当の平和への戦いはここから始まります。
8月10日
ポツダム宣言は日本政府により正式に受諾の意思があることが表明されたものの、この時点では日本軍や一般市民に対してもそのことは伏せられており、さらに停戦も全軍に対して行われていなかった。
8月14日
御前会議では依然として阿南陸相や梅津参謀総長らが戦争継続を主張した。天皇が「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と訴えたことで、阿南陸相も了承し、鈴木首相は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承した。
8月15日
正午に天皇はラジオ放送(玉音放送)をもって、日本の全国民と全軍にポツダム宣言受諾と日本の敗戦を表明し、この時点で一部地域を除き、ほぼ全ての日本軍の戦闘行為が停止された。
トルーマン大統領のマッカーサーへの命令
「貴官をこれより連合国最高司令官に任命する。貴官は日本の天皇、政府、帝国軍総司令部の正当に承認された代表たちに降伏署名文書を要求し、受理するために必要な手続きを踏まれたい」
8月30日
連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の総司令官としてアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も厚木基地に到着した。
9月2日
降伏文書調印式は東京湾(内の瀬水道中央部千葉県寄りの海域)に停泊中のアメリカ海軍戦艦「ミズーリ」艦上で、日本側全権代表団と連合国代表が出席して行われました。
9月3日
連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。
これに対して重光外相は、マッカーサー連合国軍最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時にトルーマン大統領の布告の即時取り下げを行い、占領政策はポツダム宣言の条件通りに日本政府を通した間接統治となった。
9月11日
事前通告なしに東條英機元首相をはじめとする37人を戦争犯罪人として逮捕、拘留しました。
9月27日午前10時
天皇陛下とマッカーサー元帥の会見
会見が始まる前、写真撮影があり、その中の一枚が教科書にも載っている、この写真です。
写真撮影後、2人の会見が始まりました。そこでどんな会話が交わされたのか、公式の記録はありません。
8月29日のアメリカ議会でも昭和天皇を戦犯として裁く決議案が提出されていたし、連合国側も多くの犠牲を出していたので、日本統治者の死を望んでいました。
そしてマッカーサーも多くの為政者がそうであったように天皇も命乞いに来ると思っていました。
しかし、マッカーサーは回顧録に次のように記します。
「天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』 ――大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」(『マッカーサー回顧録』1963年)
「日本国天皇は私です。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われた限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられたも、いつでも応ずるだけの覚悟はあります。」
「しかしながら罪なき八千万の国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食無き姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民に衣食住の点のみにご高配を賜りますように。」
と言われたとも伝えられています。
藤田は回想録にこう記します。
「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。 『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。 これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和36年)。
会見は当初、15分の予定でしたが、35分にも及び、会見終了後、マッカーサー大将の天皇に対する態度は一変していました。
その後マッカーサー元帥は天皇を戦争犯罪で裁いてはいけないと判断し、日本国及び日本人には必要な存在であるという考えに至りました。
昭和天皇の御英断によって戦争が終結し、全ての責任を一身に背負うことで、マッカーサー大将の心を動かし、日本の文化が守られ、平和への道が切り開かれ、それが昭和、平成、令和と繋がってきました。
「父母の心情、僕の体」という御言を思い出しました。
激動の昭和に創設された「世界基督教統一神霊協会」です。
日本の好景気バブル時に経済基盤が出来て、韓国本部へ多額の献金が送金できました。
勝共思想を通じて多くの政治家の賛同も得れ、日本に必要な団体でありました。
令和になり、日本に必要ない団体として解散請求されています。