家族について③・・・・・母 | gontakunのぶろぐ

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母が亡くなり、とりあえず忙しい日々なので更新しないままでいきます。

我が家の母,とにかくパワフルな人!怖い人!

母の実家は善光寺門前で金物屋を営んでいる家

学生時代は短距離・障害で国体に行った人

実業団からもお声が掛かっていたが,祖父が勝手に断ったらしい

頑固さは,そこからなのか

当時の新聞に名前があり,子供として尊敬と継げない運動神経を嘆いたものです(宿題でテーマにちなみ調べた記憶があります)

母はとにかく怖いのです

常に怒ってる?ってくらい

私も怒りを燃え上がらせる天才であったのでしょうが,真冬でも裸足で追い出されました

今考えると虐待?って言われていたかも

逃げ場は常にあり,父が優しいので怒られる先は最終父でしたし,近所のおばちゃんもサンダル貸してくれたりチャンチャンコを持ってきてくれたり,そのくらい有名な怒りんぼ母ちゃんですあかオニ

私が幼稚園の頃,バレーボールの同好会があり参加したのがきっかけで,ママさんバレーボールを始める

小さい頃はいつも体育館で過ごしていた。昼も夜も

自分の練習だけでなく,他チームも見ていた(コーチや監督)

私には6学年上の姉がいるのですが,遊んでもらえる感じでは無かった

姉なりに面倒でずる賢い妹は嫌いだったろうと思う

テレビとお友達になる。今のようにアニメもいっぱいやってないし,でも静かだと怖いしテレビは常に点いていたものです

なので,母が連れ出してくれるものは喜んでついていった

多趣味なこの人,考えると,バレーボール,詩吟,生け花,編み物などなど毎日お出掛け

多分,ママさんつながりと近所なんだろう

バレーボールも母の影響で始め6年やってはいたが成長見られなかった(身長も)

小学生なのに詩吟やってましたよ私。検定も受けていたなぁ

それだけ母に一緒にいてもらいたかった甘えん坊だったのかな

そんな母が私が小学4年のとき事故に遭いました

バイクに乗った母とタクシーの出会い頭での事故(今でもこのタクシー会社のは乗らない)

父と姉が真っ青な顔で学校に迎えに来たのを覚えてます

日赤へ(当時移転前のおんぼろ病院でした。今はいまでおんぼろですが)行くと説明を聞きに行った二人が泣いてます

「母ちゃんは?」と聞くと右手・右足切断と言われたとのこと

よくわからなかった(理解の範疇を超えていたんだろうな)

親戚の叔母や叔父が頑張れや!というが,わからなかった(何故泣くと)

夕方大手術を終えた母と対面した

手も足もあった。だが全身包帯だらけ

母ちゃんなのかわからなかった

母の手足は幸い名医がいたのでくっついたそうだ。半年は入院と言われていた

翌日から定期を購入してもらい電車で病院まで通った。楽しかった(酷い奴でしょ)

だって,ランドセルを背負ったまま電車に乗れるは,繁華街の方だったので行けばいろいろ面白いでしょ

母の脅威は半年を三ヶ月にし,医師を驚かせ退院

ギブスはついているが,歩き回り松葉杖でつつくからかえって厄介でした

あっという間に普通に歩いていた

多少不自由もありますが,バレーも始められるほど回復

後に聞くと痛かったし,壮絶なリハビリだったが3人が待ってると思ったのよと言っていた

強い人である

そのまま昨年秋80歳までコーチを続けていた

若いお嬢様方ありがとうでした。ぼけ防止と心の糧であったと思います


父が亡くなった時,何もしない人でした

病院の手続,葬儀社への連絡,親戚・姉・会社全て私がやった

「だって嫌なんだもん。わかんないし,やって」「ついでに喪主もあんたで」って違うだろ

お膳立てをして前に立ってもらいましたが大変だった

葬儀,父への関係者は僅かなのですが,母の関係者が山ほど来て頂きてんてこ舞いでした

本人になったらどうなるのか,姉も私も考えないようにしてます


私は幸せなことにずっと同居しています

私たちが離婚後も住んでいた場所が善光寺に歩いて行けるような場所,住所地は狐池(きつねいけ)お社あるんですよ。しかも隣。年配者が多くその年一人亡くなるとあと3人は逝くと言われるような高齢地帯

父が亡くなったのを機会に坂が無く母に優しいところをと移住した

元々私が生まれ育った三輪(みわ)へ


孫には優しく,ひ孫には甘過ぎるを通り越し嘗められてます

あんなに怖かったのに女性

O脚の上,事故の影響プラス,変形性膝関節症にもなっていますので歩くのが辛いよう

ゆっくり,ゆっくり歩いてます

バイク(原付ですよ)もまだ現役!

雨と雪は禁止令を出してますがね

3月6日に81歳となりました

まだまだ元気で一緒に笑っていたいものです