人はこの世界にゴロッと産まれてから、ずっと仏(すでに悟ってる状態)であるのに、なんでそれに気づくための修行が必要なんでしょう。
そもそも修行ってなに?って思ってる君、そしてあなた。
修行なんて皆さんが思ってるもんとは違いますよって話で盤珪永琢(ばんけいようたく)さんがわかりやすく話されてるんで引用するでござる![]()
親の産み付けたもったは、仏心一つでござる。余のものは一つも産み付けはさしゃりませぬ。その親の産み付けてたもった仏心は、不生にして霊明(れいみょう)なものでござって、不生で一切のことが調いまする。
その不生で一切のことが調いまする証拠は、みなの衆がこちらを向いて、身どもが言うことを聞いてござるうちに、後ろにてカラスの声、雀の声、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずに居るに、カラスの声、雀の声が通じ別れて、聞きたがわず聞かるるは、不生で聞くというものでござる。その如くに一切のことが不生で調いまする。これが不生の証拠でござる。
迷わにゃ、活きた仏でござるから、悟ることもいりませぬ。仏になろうとするよりも、仏で居るが造作がなくて近道でござるわいの。
今、この場にござる衆は、一人も凡夫(ぼんぶ)はござらぬ。みな人々、不生の仏心ばかりでござる。凡夫でござると思わしゃる方がござらば、これへ出さしゃれ。凡夫は、どのようなが凡夫でござると、言うて見やしゃれ。
この座には一人も凡夫はござらぬが、この座を立たしゃって、敷居ひとつ越えて、人がひょっと行き当たるか、また、後ろから突き倒すか、あるいは、宿へ帰りて、子供でも、下男下女でもあれ、我が気にいらぬことを、見るか聞くかすれば、はやそれに貪着(とんじゃく)して、顔に血を上げて、身のひいき故に迷うて、つい仏心を修羅に仕かえまする。
その仕かえる時までは、不生の仏心で居まして、凡夫ではござらなんだが、一念、向こうなものに貪着し、つい、ちょろりと凡夫になりまする。
皆、身共がいうに打ち任せて、先づ三十日、不生でいてみさしゃれい。三十日不生で苦習はしゃったらば、それから後には、おのづから居とむなうても、いやでも不正で居ねばならぬようにならまして、見事不生で居らるるものでござる。
不生になりたいと思われて、怒りや腹立ちや、惜しい欲しいという念が起こるの止めようとされますと、二つの念が起こりまして、ちょうど走る者を追うようなもので、 起る念とを止めようとする念が戦いまして永久に止まらぬものでございます。
だとすればどのようにして止めるのかとお思いでしょうが、たとえ、はからずも思わず知らず立腹する事がありましょうとも、あるいはまた惜しいとか欲しいとかの念が出ましょうとも、それは出るままにして、その念を重ねて育てず、執着をせずに、起こる念を止めようとも、止めまいとも取り合わなければ、止むよりほかはないのでございます。
こうした心持ちで常におられるのがよいのでございます。
怒り、嬉しいというのも、これはすべて我が欲に付いて、身のひいきの強さより生じたものですから、一切貧着の念を離れましたならば、その念が滅せないではいません。その滅したところが、すなわち不滅でございます。不滅なものは不生の仏心でございます。
とにかく常に不生の仏心を心がけなさい。不生の上にあれやこれやの念を出かしこしらえ、向こうのものに貧着し、仏心を念に取り替えなさらぬ事、これが一番です。これに油断をしなければ、善悪の念も起らず、 またやめようとも思わなくなります。そのときは生ぜず滅せずではないですか。そこが不生不滅の仏心というものでございます。このことを、よくよく納得なされるがよろしい。
赤色太字部分の辺りの言葉が重要でござる![]()
