よしおくんの悟り道

よしおくんの悟り道

過去にはスピリチュアルなどに傾倒していた時期もありましたが、2020年12月に自己が存在しないことに気づき「悟り」だけが唯一の救われる道であることを知りました。
私たちはすでに救われていて、すでに悟った存在なのだと気づくこと(決着をつけること)。それだけ。

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人はこの世界にゴロッと産まれてから、ずっと仏(すでに悟ってる状態)であるのに、なんでそれに気づくための修行が必要なんでしょう。


そもそも修行ってなに?って思ってる君、そしてあなた。


修行なんて皆さんが思ってるもんとは違いますよって話で盤珪永琢(ばんけいようたく)さんがわかりやすく話されてるんで引用するでござるウインク


親の産み付けたもったは、仏心一つでござる。余のものは一つも産み付けはさしゃりませぬ。その親の産み付けてたもった仏心は、不生にして霊明(れいみょう)なものでござって、不生で一切のことが調いまする。


その不生で一切のことが調いまする証拠は、みなの衆がこちらを向いて、身どもが言うことを聞いてござるうちに、後ろにてカラスの声、雀の声、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずに居るに、カラスの声、雀の声が通じ別れて、聞きたがわず聞かるるは、不生で聞くというものでござる。その如くに一切のことが不生で調いまする。これが不生の証拠でござる。


迷わにゃ、活きた仏でござるから、悟ることもいりませぬ。仏になろうとするよりも、仏で居るが造作がなくて近道でござるわいの。


今、この場にござる衆は、一人も凡夫(ぼんぶ)はござらぬ。みな人々、不生の仏心ばかりでござる。凡夫でござると思わしゃる方がござらば、これへ出さしゃれ。凡夫は、どのようなが凡夫でござると、言うて見やしゃれ。


この座には一人も凡夫はござらぬが、この座を立たしゃって、敷居ひとつ越えて、人がひょっと行き当たるか、また、後ろから突き倒すか、あるいは、宿へ帰りて、子供でも、下男下女でもあれ、我が気にいらぬことを、見るか聞くかすれば、はやそれに貪着(とんじゃく)して、顔に血を上げて、身のひいき故に迷うて、つい仏心を修羅に仕かえまする。


その仕かえる時までは、不生の仏心で居まして、凡夫ではござらなんだが、一念、向こうなものに貪着し、つい、ちょろりと凡夫になりまする。


皆、身共がいうに打ち任せて、先づ三十日、不生でいてみさしゃれい。三十日不生で苦習はしゃったらば、それから後には、おのづから居とむなうても、いやでも不正で居ねばならぬようにならまして、見事不生で居らるるものでござる。


不生になりたいと思われて、怒りや腹立ちや、惜しい欲しいという念が起こるの止めようとされますと、二つの念が起こりまして、ちょうど走る者を追うようなもので、 起る念とを止めようとする念が戦いまして永久に止まらぬものでございます。


だとすればどのようにして止めるのかとお思いでしょうが、たとえ、はからずも思わず知らず立腹する事がありましょうとも、あるいはまた惜しいとか欲しいとかの念が出ましょうとも、それは出るままにして、その念を重ねて育てず、執着をせずに、起こる念を止めようとも、止めまいとも取り合わなければ、止むよりほかはないのでございます。

こうした心持ちで常におられるのがよいのでございます。


怒り、嬉しいというのも、これはすべて我が欲に付いて、身のひいきの強さより生じたものですから、一切貧着の念を離れましたならば、その念が滅せないではいません。その滅したところが、すなわち不滅でございます。不滅なものは不生の仏心でございます。


 とにかく常に不生の仏心を心がけなさい。不生の上にあれやこれやの念を出かしこしらえ、向こうのものに貧着し、仏心を念に取り替えなさらぬ事、これが一番です。これに油断をしなければ、善悪の念も起らず、 またやめようとも思わなくなります。そのときは生ぜず滅せずではないですか。そこが不生不滅の仏心というものでございます。このことを、よくよく納得なされるがよろしい。


赤色太字部分の辺りの言葉が重要でござるニヤリ


ほとんどの人が心にふと浮かんできた欲望に隷属して生きています。



過去の体験や経験をもとに脳内で作られた記憶(イメージや言葉)に反応し、それを意識することもなく、反応することを自由だと思い込んでいます。



本当は自由意志などないのに、自分の意識で選択して生きているのだと、微塵も疑うことなく生きている。。



意識をコントロールすることができないことは、脳科学の分野でも定説です。少し落ち着いた時間をとって内観すれば、誰しも納得できる事実でしょう。



お釈迦様は



『すべての人の心は病気です。』



と仰ったようです。



コントロールできない意識を、自在にコントロールできると思い込んで、生きることに意味を見出そうとしたり、そのせいで勝手に悩み苦しんでいるわけですから、まさに「すべての人は心の病気」と言えるでしょう。



意識がコントロールできないのであれば、わたしたちにできることは、それを眺めていることくらいでしょうか。



それを「あるがまま」とか「明け渡す」と言います。



頭の中で考えることをやめたとき、本当の自由を手にすることができます。



少しやってみてください。



その時何が起きるのか?

楽しみにしててくださいねウインク



【補足】

頭で考えないときは、自分の意識をもう一人の自分が眺めているようなことをしないように。

もう一人の自分がいると感じるならば、そのもう一人の自分も思考です。

どうか自我に惑わされないように。

「引き寄せの法則」に関するブログや書籍が溢れています。



『引き寄せの法則をマスターすれば思い通りの人生を送らことができる』



といった内容が大半でしょうか。



そもそも引き寄せの法則が存在するとして少し整理してみましょう。



この法則は、すべての人に平等に、今この瞬間にも起こり続けているものです。



つまり、これから何かを引き寄せるのではなくて、既に皆が平等に思っていることを実現しているわけです。




人生はすでに思った通りになっている




ということです。



これから「そうなる」のではなく、「すでにそうなっている」わけですね。



ところがわたしたちは「する」ことにばかり目を向けています。

すでに思った通りになっているというのに。。



多くの実践者が、いつかは良くなるはずだと常に明日の視点から考え訓練に励んでいます。



なので、引き寄せの法則からすると、「いつか良くなる」→「今は良くない」なので、当然良くない『今』を引き寄せます。



こうして人は不満足な『今』をひたすら過ごすことになります。



解決する方法は、すでに良くなってる自分に「なりきる」というものがあり、引き寄せの法則でも頻繁に目にするキーワードですが、ここにも大きな落とし穴があります。



そもそも、まだなっていない理想の自分になりきるのは相当至難の業だからです。



「なりきる」ということは、少なくとも頭の中は、常に理想の自分になっている必要があります。



果たしてそんなことができるのでしょうか??

24時間365日、微塵の疑いもなく、なりきることが。。



もうわたしたちにできることは、「何もしない」ことです。



引き寄せと呼ばれる法則によって、思った通りの人生をすでに歩んでいるのであれば、そこから何かをしようとか、何かを変えようとするのではなくて、叶っている今をそのまんまにして、ただ起きていることを眺めているだけでいいんです。



自分というものを捨てて、スピリチュアル的にいうならば、「宇宙に委ねる」とか、悟り系では「明け渡す」とか言いますが、要は疑いようもなく存在すると信じてきた「自分」を捨てて、自分というものからはさよならバイバイ、完全に死んで死にきって、捨てきって、残ったソレに全てをお任せすることです。




悟りも同様です。

すでに悟っている状態であるというのに、未来のいつか悟ることを夢見て実践していては、本末転倒です。



それでも悟りたいという動機がなければ実践もできません。



じゃあ、どうしたらいいの???



という声が聞こえてきそうですがニヤリ



答えは前述のとおりです。

もう自分というものを捨てて、もう考えるのをやめることです。

あなたがしっかり握って離さない自分というものは実在しないのですから、実在しない自分というものを立てて、そこから願望をイメージしたり、考えたり言葉にしても、思った通りになっている『今』からは遠く離れる一方です。



頭の中で考えないようにしようとするのではなく、思考者がない状態で、考えることをやめる。

言葉なしに見つめることです。