2023年2月13日、漫画家でアニメーション作家の松本零士氏が逝去されました。

私が最初に先生の作品に接したのは、SFとは程遠い「男おいどん」です。九州から上京して、東京の古びた下宿屋に住む大山昇太と、その周辺の人々の他愛ない日常を描いた、「男おいどん」は、当時多くの青少年を魅了し代表作の一つとなりましたが、かなり衝撃的な終わり方をすることになります。これは先生から、「話を広げすぎ」て「けじめがつかなくなる」との思いから終了を申し出たといいます。まだ人気があったにもかかわらず、終わらせ事は先生としても悔いが残ったでしょうが、それは後日別の作品となって結実したように思います。

その後先生が関わった「宇宙戦艦ヤマト」からSF作品へと軸を移しますが、それ以前から初期の「電光オズマ」そして、「セクサロイド」や「マシンナー・シティ」等、成人誌等ではSFを描いていました。当時手塚治虫先生達はSFを描いていましたが、それらと比べ、松本先生の描くメカニカルなSFはちょっと異質でした。そして松本零士ブームにより、いわゆるメカSFが広く認知されるようになります。そして大ヒット作「銀河鉄道999」を発表することになりますが、これは当初テレビアニメ企画として先生がテレビ局に持ち込んだ者でした。1976年秋に東映動画(当時)からテレビアニメ「惑星ロボ ダンガードA」への参加を要請されましたが、松本先生は巨大ロボットアニメに気乗り薄で、結局参加したものの、「銀河鉄道999」と「宇宙海賊キャプテン・ハーロック」の2つの企画を東映動画に逆提案し、先生自らが企画書を作成してテレビ局にも売り込みましたが没になり、ちょうど「少年キング」と「プレイコミック」から連載の依頼があり、漫画が先行する形となりました。その後、自らが起こした松本零士ブーム、そしてSFブームによりテレビアニメ化の運びとなったわけです。この辺りは、今見ると意外かもしれませんが、「惑星ロボ・ダンガードA」の放送開始は1977年3月。「宇宙戦艦ヤマト」は1974年10月ですが、本格的なブームになったのは、1977年8月の劇場公開からで、「ダンガードA] の企画が立ち上がった頃は、ヤマトブームが起きる前でした。

なお、私は「宇宙戦艦ヤマト」は、先生の原作というには無理があると考えています。先生が「宇宙戦艦ヤマト」の成立過程で、多大な貢献をされた事は間違いないですが、それと「原作者」と認めるかは別の問題です。それと同じで、西崎氏を原作者と認めていいかと言えば、それも違うような感じがしますが。

松本美女の完成形・メーテル

近年、ヤマトはリメイクされましたが、以前リメイク版の「宇宙戦艦ヤマト2202愛の戦士たち」以降の作品は嫌い、と書いたことがありましたが、その時触れませんでしたが、「2199」には松本先生への強いリスペクトを感じたのに、「2202」以降の作品にはそれが感じず、むしろ松本先生のカラーを消そうという方向に動いているように感じたのも、理由の一つです。

SFのイメージが強い松本先生ですが、SF以外にも前述の「男おいどん」等四畳半シリーズや、「トラジマのミーめ」等の日常もの、「ガンフロンティア」に代表される西部劇もの、「戦場マンガシリーズ」「ザ・コクピット」等の戦争マンガ等、スポーツもの以外の多岐に及びますが、これらの世界観の融合系と言っていい「スペース開拓者ワダチ」も忘れられない作品でしょう。そしてこれこそ、「男おいどん」の進化系だと私は考えています。個人的に一番好きなのはこの、「スペース開拓者ワダチ」。是非とも一度映像化してほしいと思っていました。

このように、多岐にわたりご活躍された松本零士先生でしたが、2019年11月に訪問中のイタリア・トリノで体調を崩され、現地の病院へ緊急搬送されましたが、命に別状なく12月4日に退院し、翌日帰国された聞き及びほっとしましたが、そのあと具体的な活動が聞かれなかったので心配していました。だいぶん期間が開いているので、直接関係ないでしょうが、もしあの件がなければ、もう少し元気であられたのではという気もします。

 

これまだ数多くの作品を通して、私たちに勇気と希望を与えてくださったことに、感謝いたしますとともに、「ありがとう」とお礼を申し上げたいと思います。そして天国で、日本の漫画、アニメ界を見守っていてください。

劇場版「銀河鉄道999」のワンシーン