くもとちゅうりっぷ(1943年) 監督 政岡憲三 声の出演 杉山美子 村尾護郎

クモが巣の前にハンモックを作り誰かを乗せようとすると、歌を歌う女の子のてんとう虫を発見。「ハンモックへ乗って遊ばないか」と誘う。てんとう虫の女の子は礼を言いつつ断りクモと別れる。しかしクモはしつこく、てんとう虫を追いかけ続け、危険を察したチューリップは花の中にてんとう虫をかくまう。そのことを知ったクモは、チューリップを糸でグルグル巻きにして、てんとう虫が外へ出られないようにしたうえでハンモックへ戻り、眠ってしまう。しばらくすると嵐が来て、ハンモックは風で飛ばされ修理していたクモも、飛んできた葉に当たって遠くへ飛ばされてしまう…。

1943年に松竹動画研究所によって制作されて公開された白黒アニメーション作品。太平洋戦争中に日本で制作された貴重な国産アニメである。小説家の横山美智子の童話集「よい子強い子」(1939年、文昭社)の中の一編を原作とする。上映時間16分と短いながら、叙情的な内容から日本アニメーションの、黎明期を語る上で欠かせないものとなっている。監督は政岡憲三が務めた。動きを滑らかに表現するため、主人公のてんとう虫の動きは、水着を着た政岡の妻をモデルにして作画された。なお原作は、1ページ半程度で、監督の政岡憲三はこのそっけない原作を、情感あふれる作品にまとめ上げた。
松竹の初のアニメーション作品ということで、多大な予算をかけ、大学初任給が60円だった当時、倍以上の150円の給料で10名のスタッフを雇い、1942年から制作を開始した。16分の作品に2万枚の動画枚数をかけたという。ちなみに、現代のテレビアニメ1話は20分程度で、そこで使われるセル画は平均3000枚。多い作品でも5~6000枚であるというから、その多さが分かる。
また、当時日本では、紙や布、写真を切って作ったキャラクター、プロップ、背景を使うストップモーション・アニメーションである、切り絵アニメーションが一般的だったが、本作ではすべてセル画を利用して作られている。しかし、当時はセルは貴重品であったため、撮影が終わるたびに「セル洗い」を繰り返し、使いまわしていた。またモノクロ作品にもかかわらず、セル画に彩色が施されていた。戦時下にもかかわらず、叙情性に満ちた作風から、絶大な人気を得ることになる。
プロパガンダと無縁のように思える作風だが、てんとう虫の女の子は日本人的な顔立ちと体型なのに、それをつけ狙う手足の長い悪役のクモはカンカン帽とマフラーを身につけ、パイプをくわえていることから、てんとう虫の女の子は日本を、クモは欧米などの外敵、そして作品後半の嵐が日本を救う神風を隠喩していると解釈することもできる。
一方、公開時には、てんとう虫の女の子が色白なことから白人、黒いクモを当時で言う南洋の原住民と解釈され、「大東亜共栄圏を築くため、日本が南洋の原住民と友好関係を築く必要がある時節に、原住民を悪役として描き、可愛い白人をいじめるのはけしからん」とみなされ、文部省の推薦を得ることが出来なかったという。この辺りはどうとでも解釈できるという事だろう。私が見た限り、同時期のディズニー映画張りの滑らかに動きに、ただただ驚かされるばかりで、特にプロパガンダ臭は感じなかった。
本作を作った松竹動画研究所は、戦後松竹株式会社に統合され、松竹のアニメ事業は事実上の終焉する。独立した政岡憲三が1947年に村田安司、山本善次郎らとともに「日本動画株式会社」を設立。その後、東映が吸収合併し東映動画(現:東映アニメーション)が発足。松竹が本格的なアニメーション制作に復帰するのは最近の事だから、逃した魚はマジに大きかったということか。