くじらの本棚 -2ページ目

くじらの本棚

読んだやつの備忘録

 

 

 共感覚、というのは分からないけれど、創作物に触れたとき、匂いを感じる時がある。

 

 昔、進撃の巨人が読めなかった。

 

 お母さんが食べられたとき、粒子の細かい砂が鼻の奥を覆って、嫌な臭いがした。

 

 そこに、脂の臭いが重なる。

 

 血ではなかった。そんなものではない。

 

 肉が潰れて、あらゆる体液が溢れてくる。

 

 巨人の口臭。

 

 むき出しの筋肉の臭い。

 

 その全てが混ざって、臭くて、不快だった。

 

 だから進撃の巨人は読めなかった。

 

 あのタッチもよくなかったのだと思う。

 

 髪の毛の質感も、肉の付き方も想像できてしまう。

 

 もっとプラスチックみたいに描いてくれたら読めたのかもしれない。

 

 

 共感覚というのは、数字や音に、色がついて見えることらしい。

 

 色じゃなくて、匂いがすることもあるようだ。

 

 ちょっと特殊な感性を持った少年少女の小説を読んだ。

 

 

 

 

 数字に色が見える。

 

 色の匂いがする。

 

 と聞くとなんだか詩的で、色鮮やかな世界! 美しい!

 

 ……で済めばいいのだが、実際はそうもいかない。

 

 数字に色がついて見える、というのは、計算に影響が出ることもあるようだ。

 

 例えば、白い絵の具と赤い絵の具を混ぜるとピンク色になる。

 

 1は白、2は赤、混ぜたらピンク。

 

 ピンクは、9だ。

 

 白×赤=ピンクだから、1×2=9になる。

 

 という思考回路を通って、赤点、落第生、いじめられっ子へと辿り着いたりする。

 

 嫌な話だ、もにゃもにゃする。

 

 

 しかし、よく分からないもの、すなわちよく分からない思考をする者を排斥しようとするのは、自然な反応なのかもしれない。

 

 街中で、一人クツクツ笑いながら目をきょろきょろさせ、ノールックあやとりで最高難易度の「蜘蛛の巣」を作っている人間がいたら、どうだろうか。

 

 さらにダッシュしており、そのリュックには、3本のスタンガンが刺さっている。

 

 恐ろしいというか、なんだか距離を取っておきたい気持ちがある。

 

 「違う」とか、「特殊」というのは、不気味に映るのである。

 

 実際は防犯意識の高い、ただのあやとりプレイヤーだとしてもだ。

 

 

 本書で少年がいじめられていたのには、共感覚以外にも、みんなと「違う」家庭環境に原因がある。

 

 しかし、おかしな事ではないのだ。

 

 画家の父親が創作意欲に駆られて家を飛び出すのも、そのせいで母親が日夜働くのも、少年が不思議な計算をするのも、みんなとは違うかもしれないが、そういうものだ。

 

 大変なことではあるが、変なことではない。

 

 

 本書では共感覚という、明確に「違う」とされている感性を取り上げている。

 

 けれど、それは大した問題ではないのかもしれない。

 

 音や数字に色が見えても、見えなくても、もっといろんな見え方がある。

 

 私が「俺」の人と、僕が「私」の人。

 

 甘えるのが上手な人と、下手な人。

 

 他にも挙げ始めるときりがないけれど。

 

 異なる価値観の間には、世間で言われているマナーを守ったところでどうにもならないくらいの、透明で分厚い壁がある。

 

 共感覚とか、そんな分かりやすい違いがなくても、人間はそれぞれ明確に違う。当たり前だけれども。

 

 分かり合うというのは、本当に困難で不確かなことだ。

 

 それなのに更に、人を好きになるなんて、それは一種の暴力と言えるのではないか。

 

 先生と少年は、常に殴り合っていたのだと思う。

 

 「自分と同じく、世間で言う『普通』に馴染めない人間である」

 

 「ヴィーナスのように美しく、賢く、立派な人である」

 

 とそれぞれ認識していたけれど、同じ共感覚者でも色の見え方が違うように、そのキャラクターの認識も違うのだ。

 

 先生は自分の誤解、愛を被せた暴力に気がついてしまった。

 

 最後の電話は、懺悔でもあったのかもしれない。

 

 あの赤色で、なんとしても檸檬色を覆さなければならなかった。

 

 そんなに綺麗じゃない。

 

 そんなに好かれるような人間じゃない。

 

 少年が見ているのは、偶像である。

 

 少年だけじゃない、全ての視線に気付かせる。

 

 それは「俺」ではないと。

 

 

 

 

 なんて、こんなことを想像してみたけれど、本当のことは分からない。

 

 唯一確かなことは、拙者にとって素敵な情景描写であった、ということだけだ。

 

 本書の情景は、少年の瞳を通して語られる。

 

 人の顔の色、数字の色、音階の色。

 

 壮大な海の、一つ一つのうねりの色。

 

 先生の色。

 

 白い紙に整列した文字から、色が溢れてくる。

 

 だからこそ、何気ない現象に重大な価値が感じられる。

 

 

 少年の椅子が校庭に捨てられていた場面。

 

 拙者は、椅子の上を砂がさらさら滑っていくのを見ていた。

 

 あの、どうしようもなく追い詰められて何もかもどうでも良くなったときの放心状態を、そうやって表せるのだと感動した。

 

 それまでに、人の見え方や数字の見え方を全て詳らかに描写してきたからこそ、ただ砂が椅子を滑っていく様の切なさが際立つのだと思う。

 

 また、共感覚という感性の特性上、色を表す言葉は多彩だ。

 

 無意識のうちに色を想像させる仕掛けや、普段耳にしない色名が、想像力を刺激する。

 

 匂いや音の表現も生々しい。

 

 読者の中で、更に色鮮やかになる作品だ。

 

 

 けれど、ここで忘れてはいけない。

 

 好きは暴力であること。

 

 作者が見た色と全く同じ色なんて、見えるはずはないのだ。

 

 自分が見えた色を大切にしつつ、作者や、他の読者が見た色も尊重したい。