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人は、いったい何を見て、何を感じて生きているのか?
文明は、はたして人生を、より良くするものだろうか?
膨大な人生という、時間を注ぎ込む価値があるのか?
人生を輝かせるのも、幸せにするのも、自分が感じとらなければ
解らないし、他人から見ても解らない。
すべては無我、すべては、縁によって他から生じたもの、
縁起の現象だから。
あらゆる現象は、縁起により、他の現象により条件づけられ、
生み出され、変わり、いつか終息する。
あなたたちだけでなく、私も、この蝶も、犬も、雲も、空も、
石も、山も、あの町並みも、
すべてが縁によって生じ、縁によって変化し、縁によって世界を変え、いつか縁によって解消される。
一切は重なり合い、互いに縁起しあって、変化する世界をつくっている。
あなたが右に行くか、左に行くかによって、世界の一切が今あるものすべてを変え、今あるものすべてがそれぞれの仕方で世界を変え、
世界の一切が今あるものすべてを消散させ、世界の一切が新しいものを生み出す。
すべては無我であり、縁起する。なぜなら、すべては縁起し、無我であるから。
世界の変化は、芋虫一匹の動きに、応じて縁によって散る。
あなたたちという現象の場所は、世界の中に広がり、世界はあなたたちという場所を満たし、あなたたちは、世界とともに縁起する現象だ。
『善男善女よ。
風が現われ、そして消えた。
しかし、なにも増えたものはなく、減ったものもない。
空気が動いただけで、その量に変わりはない。
はたして風という「もの」が存在したのだろうか?』
男が答えた。
「いいえ。そうではありません。風は起こっただけで、「もの」として存在したのではありません。」
『よろしい、よろしい。まさにそのとおりだ。
しかし、風がまったくの幻だったという訳でもない。
これだけの枝を折ったのだから。』
釈迦はかたわらに落ちた大きな枝を拾い上げられた。
『あなたたちも同じだ。あなたたちが生まれた時も、増えたものはなにもなく、あなたたちが死んでも、減るものはなにもない。
あなたたちは、起こっているだけで、存在しているわけではない。』
人々は、意味が分からなかった。しかし誰もなにも言わなかった。
釈迦は人々の疑念を察知して、再び比喩をもって説明された。
『あなたたちは、どこそこに川があるという。しかし、川という「もの」は存在しない。
溢れでる川の水は、流れさって留まることはない。
あなたたちも、川と同様に、ものが通り抜けていく場所なのだ。
あなたたちが生きている間、多くのものがあなたたちを通り抜けていく。その間ずっとあなたたちの中に留まるものはなにひとつない。
あなたたちの体を通ったものは世界へ散っていく。
あるものは、ある時、土となり、あるものは、ある時、別の動物となり、あるものは、ある時、草になり、あるものは、ある時、鳥となる。
今<あなた>となっているものも、かつては風であり、土であり、草であり、魚であり、別の人であり、虫であった。
そのようにして今のあなたたちは今のようにあるのだ。』
あるものは噂に聞き、あるいは夢に見て、また不思議な偶然に導かれ、近くの村から、遠くの町から、さらには山脈のかなたから、途切れることなく人々が集まってきた。
その日集まった人々は、あるものは人の悩みを聞いてその苦しみを減じることに長け、あるものは経典の知識が豊富で、あるものは自分の幸福より他人の幸せを優先し、あるものは貧しい人々に多くの援助をしてきた。
このように、この日集まった人々はみなよき人々で、悪行によって心を濁すことを注意深く避けてきたが、長らく今の状態にあり、さらに一歩解脱に向けて踏み出すことができずにいた。
釈迦は合掌し、ゆっくりと半眼
注から視線を上げて人々を見渡し、静かに語りはじめられた。
「善男善女よ。
私の話すことに、新しいものは何もない。なにもかもあなたたちの誰もが分かっていることばかりだ。
しかし、あなたたちはそれを忘れている。
幻に惑わされてはいけない。目を開き、見えるとおりに世界を見なさい。
そうすれば、いつも新しい光の雫として、世界の中で世界とともに歌い踊ることができる。
その時あなたたちは、けして苦に転じることのない喜び、すきとおった悲しみの混じった大いなる喜びを知るだろう。」
「私たちは目を開けています。私たちが見ているのとは違う別の見方があるのでしょうか? 私たちが忘れている別の見方とは何でしょうか? けして苦に転じることのない、すきとおった悲しみの混じった大いなる喜びとは何でしょうか?」
「見なさい。 」
太い腕を伸ばし、眩しく日に照らされた一隅をさした。するとそこに砂が舞い、つむじ風が起こり、瞬く間に強くなった風は、大きく梢をゆるがせて台地を一巡りした。人々は、首をすくめ、持ち物や髪を押さえたが、風は起こったときと同様、すぐにおさまった。
シュバイツアーは、
人間尊重・人間平等の姿勢を表現するのに、「生命への畏敬」という言葉を使った。だが、
マザー・テレサは、
これと同じことを言うのに
「すべての人間が、神に望まれてこの世に生まれてきた」という言い方をする。
私は無神論者だが、マザーの言い方の方が心にしみ入るように思われる。
人は神と一体化しようとするとき、「常識的な宗教家」は上へ上へ、高く高く、天国へ天国へと上昇するイメージを描き高い教会、仏塔、モスクなどを建てる。
しかし、マザー・テレサたちの活動は、
神と一体化するには、貧しい人びとのなかへ、さらに貧しい人のなかへと無限に下降し、貧しき人びとのなかにあるキリストそのものを見ていた。
貧しい人のなかの、もっとも貧しい人こそキリストだ、という信念から出発している。