『牛の尻』にならないために人物を磨く❣

「牛の尻」にならず、「知ったら行動し実行せよ❣

「牛は何と鳴くのか?」

「モー」と鳴く

「モーの尻」だから「牛の尻」という

 

「物知りになるために勉強するのではない

 

「良いと知れば直ちに行動できる人物」に成るために

勉強し学問をするのです。

 

毎日勉強する目標は

 

『牛の尻』にならないために学問をして人物を磨く❣

 

一口で早く言えば

 

物知りにならず、行動力のある人間であれということです。

 

 


 ●「あんたは牛のけつじゃな」
 
 東京の谷中に南隠という偉い禅僧がおった。

ある日 新進の仏教学者がやって来て、盛んに仏教を論じ、遂には達磨とか二祖大師慧可(えか)(中国禅宗の第二祖)の「断臂(だんぴ)の物語」などを取り上げて、・・・・とうとうとまくしたてたそうじゃ。

 そうして、いろいろの書物を引用し、新しい研究の材料を羅列してやるものであるから、

 初めてそういう話を聞く禅師は「ほう、そんなことがあったか」と熱心に耳を傾けている。

「どうだ古くさい和尚、俺の新研究に驚いたか」と学者も内心得意になってやっておったところが、だんだん禅師が黙り込んでしまった。

そこで学者も、これ以上やるとご機嫌が悪くなるかも知れぬ。この辺が引揚げ時だと思ったので、そこそこにお暇乞いをすることにした。禅師は「いや、おかげさまで今日はたいそう面白い話を聞かせてもらった」と玄関まで見送って、さて別れの挨拶をすませて出ようとした時に、

和尚はさも感に堪えぬような声で、

たった一言、「あんたは牛のけつじゃな」と言われた。

 何のことか分からぬので、「へえ」と言って帰って来たが

 学者先生このことが苦になって仕方がない。

「牛のけつじゃな」と言われたが、牛のけつというものはあまり見てくれのよいものではないから、褒めたこととも思えぬが

、しかし、あんなに真面目に感に堪えぬような声で言われたのであるから、いずれにしてもよほど意味があるに相違ないというので、辞引を引っぱり出してさんざん調べてみたが分からない。

「牛のけつ」という熟語もなければ故事もない。

百方苦心して、ふっと気づいたのが、あの禅の「十牛図」であります。これは人間の悟りの境涯のだんだん進化してゆく過程を、牛に警えて説いた面白い物語でありますが、その十牛図を思い出して、どうせこの辺から出ておるに違いなかろう、というので始めから終わりまで調べてみたが、牛のけつらしいものはなにもない。

 とうとう百計尽きて、ある日再び禅師のところへ出かけて行った。そうして無駄話の末に、

「時にお教え願いたいことがある。

先日禅師から『あなたは牛のけつじゃな』と言われましたが

 どうも私、浅学寡聞にして、その意味がよく分かりませぬ。なにとぞお教え願いたい」と言ったところが、禅師は呵々大笑して「それだから学者は困る。

 牛はなんと言ってなくか、「モウー」、といって鳴くじゃろ。

 けつはお尻じゃ。だから、お前さんはもうのしり(物知り)じゃなと言ったのじゃ」と言われた。

 これを聞いてその学者も、もうがっかりしてしまって、開いた口が塞がらんで帰って来たという。

早い話が・・・「牛」は、モーウと鳴く「けつ」は尻だから「ものしり」ということじゃが・・・「物知りではいけない・・・行動しなければ駄目じゃ」という話なんでも知ったかぶりで実行しない人を「牛のけつ」というのだ。

 単なる物知りではなんの値打ちもないという話じゃった。