修行から悟りへ・・・・・千日回峰行から「感謝」「反省」「敬意」
        大峯山千日回峰行の厳しさから生まれた「悟り」
      

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人と人、心と心が通い合っている時というのは、私たちはこの上もない幸せを感じるものです。そのために私は「感謝の心」とそして常に自己を省みるこの「反省の心」そして相手を思いやる「敬意の心」この三つがとても大切だと思います。

何故、私がこういう考え方に到ったかというと、昔、大峯千日回峰行という修行を通じて得た世界観だと思います。千日行とは1日48kmの山道を1000日間歩き続け、その行が終わると今度は9日間に及び飲まない、食べない、寝ない、横にならないという修行を続けます。

私は幼いころこの修行をある日テレビで知りました。とても純粋な気持ちでこの修業に「挑戦したい」と思いました。なぜ 10代の子供がこのような修行に挑戦したいと思ったのかはわかりませんが、小さい頃からみんなが仲良くするためにはどうしたらいいのだろう。

そして、どうして人と人とは争うのだろう。それを解決するには一体どうしたら良いのだろうということにとても興味を持っていたからかもしれません。私が挑んだこの千日回峰行をお話しする前に少しだけ日本人が持つ宗教観についてお話ししたいと思います。

この日本という国には昔から日本人が信じてきた「神道」という民族の宗教がありました。 そこに538年大陸から「仏教」が伝わって、この二つは共に排他性と独善性が少ないため 日本において結びつきました。

大自然に対しての共存や感謝の気持ちを大切にする「神道」と人間がよりよく生きていく為の生き方を提示してくれる「仏教」がこの日本という国において深く融合しやがて「和」の精神を大切にするようになりました。

そして、大自然に「生かされている」という世界でも珍しい考え方をするようになったのです。たとえば 2011年3月11日この東北という地域に大きな地震と津波が襲いました。私達は大きな苦しみと多くの困難を抱えました。

深い悲しみの中でも人々は互いに助け合いそして食料を分け合い「和」の精神を大切にして 精一杯生きておりました。その姿が世界中に発信され「日本人は素晴らしい」と多くの賞賛を得たと聞いております。

震災からしばらくするとある海外のメディアが「この日本という国の人たちは大自然に生かされているという考え方を持っていて、いつまでも自然を恨んではいないこれには驚きです」とコメントしたことがとても印象的でした。

そういう信仰観のあるこの日本ならではの修行である、まさに大自然と向き合う大峰千日回峰行に挑戦するため、私は奈良の吉野山・金峯山寺に向かいました。この行に入ると一日48kmの山道を16時間かけて毎日歩き続けなければなりません。

そして5月の3日から9月の3日までの4ヶ月間を行の期間と定めその期間は雨が降ろうが嵐が来ようがどんなに体調が悪かろうが途中で辞めることができません。もし万が一、途中でやめなければならないと自分で判断したならば、短刀でもって腹を切ってその場で行を終えるという厳しい掟があります。

なぜそこまで厳しいかというと、たった1日でも48kmは大変なことこれを千回も続けるということは死ぬくらいの覚悟がなければこの行には入ってはいけませんという強い戒めのための掟であり、命を軽んじている考え方ではありません。

行に入ると毎日23時30分に起床します。そして滝に入り装束を整えおにぎり2つと500mlの水を持って午前0時半、目指す山頂が24km先にある1719mの大峯山山頂を目指します。途中、急な斜面や断崖絶壁のような悪路もあり、まさに一瞬一瞬が命がけです。

山頂到着が朝の8時30分、そこでおにぎりと水を補給しまた来た道をたどって帰ってくると夕方の3時半、そこから掃除、洗濯次の日の用意をしてまた4時間半ほどの睡眠でこの4ヶ月を通します。

一日のほとんどがおにぎりと水で生活しますので、一か月ほどで栄養失調でぼろぼろと爪が割れてきます。三か月目になると40度以上を超える気温の中歩きますので血尿が出てしまいます。

山では熊、猪、マムシがいつ襲ってくるかわかりません。そういった中を日々精一杯前を向いて歯を食いしばって修行をいたします。行の中で私は心に思ったことを日記に書きつづっていました。それを拝読してみたいと思います。

17日目 “行者なんて次の一歩が分からないんだ。行くか行かないかじゃあない。行くだけなんだ。理屈なんか通りやあしない。もし行かなけりゃあ、短刀で腹を切るしかない。そう 次の一歩が分からないんだ”行に入ると肉体的 精神的には非常に日々極限状態に追い込まれます。

しかし、心の中はいつも潤っていました。それは何故かというと自分がこの行を通して精一杯努力をして何か世界の人たちのために何かお役にたてるような人間になりたいといつも心の中で強く夢や希望に満ち溢れていたからかもしれません。

しかし、1300年の中でまだ一人しか達成していないというこの修行は困難を極めました。 最低3回は生きるか死ぬかの試練があると言われております。まず1回目は大きながけ崩れに巻き込まれそうになったこと、2回目は熊に襲われかけたこと、そして3回目は488日目から10日で11kgも痩せてしまうという体調不良でした。

489日 “腹いたい、たまらん。体中のふしぶしが痛くたまらん。道端に倒れ、木に寄りかかり、涙と汗と鼻水を垂れ流しでも人前では毅然と俺は人に希望を与えさせて頂く仕事、 人の同情を買うようでは行者失格だと言い聞かせやっと蔵王堂に帰ってきた。

なんで48km歩けたんだろう、さっき近所のおばちゃんが「軽い足取りやねえ 元気そうやねえ」と俺は「はい ありがとうございます」と答えたが本当は違うんだよ。俺の舞台裏は 誰も知る人はいないだろう、いや知ってくれなくていい。

誰に見られることを意識しない野に咲く一輪の花のごとく、御仏に対しただ清く正しくありたい”何日も高熱が出て何も食べることができず、そして私は495日目とうとう山の中で力尽き闇の中に倒れてしまいました。

その時の心境はというと辛いとか苦しいとかという感覚は全くありませんでした。そして何かにくるまれているようなそういう感覚でした。そして朝を迎えたら自分がここで死を迎えると自分で感じておりました。

すると幼い頃からの記憶が蘇りいろんな人にお世話になった事を思い出し、こんなところで倒れてはいけないと強く前に進んだから今の自分がここにあります。人間が生死を彷徨うような体験をすると人生観が変わると言いますけれども、その後書きつづった日誌を読んでみましょう。

563日“人間は皆平等であると思います。この地球に生まれ、空気も、水も、光も平等に与えられていることを感謝しなければならないと思います。夜空の星の数は人間が一生かかっても数えきれないといいます。

それを考えたならば、もっと心豊かに生きていかなければならないと思いました。自分の胸に手をやれば心臓が動いています。しかし、永遠に動いていることはないと思えば人生という与えられし限られた時間を大切に生きれるはずです。

自分を大切にするように他人をも尊重するということも忘れてはいけないと思います。思いやりの心が私たちに幸せをもたらす道です。朝起きる、歩く、食べる、寝る、人間生活の原点にかえりたった一人お山にいるとこんな事を考えてしまいます”

「同じことを同じように繰り返して情熱を持って毎日を過ごしていると悟る可能性がある」と今から2500年前釈尊が言われました。ここに行の意味があります。日々、汗し涙しそして歯を食いしばり歩いていると「人間として大切なものは何か」ということに自分が気がつき始めます。

その極限の世界で感じたことが「感謝の心」であり「反省の心」であり相手を思いやる「敬意の心」。しかし、こういうことはとても日常当たり前のことであって小さい頃家庭で教わるようなことです。

けれども自分自身が本当に生きるか死ぬかの瀬戸際になったときに「こういうことが大事だったんだ」ということが心の奥底で実感できるようになるのであります。大切なのはあらゆる存在との調和だと思います。我々一人一人は かけがえのない存在であります。

誰でも自分が可愛くて自分が大切です。だからこそ自分を大切にするように人を尊重するという事を第一に考えなければなりません。心から相手を思いやるその思いやりの心や言葉や行動が、人と人とをつなぎ合わせその功徳が回り回って自分の心を潤し、そして我々が光ある人生へと導かれていくことでしょう。

争い対立からは心の喜びは生まれません。今、与えられたこの環境を真摯に受け入れて向き合ってみることも大切です。向き合うことによって初めて何かが生まれます。そして絆が深まります。もちろん向き合うことによって様々な問題を抱えてしまったり困難を抱えてしまうかもしれません。

しかし、互いに尊重し合い敬意を払い話し合うことによってそこで新しい方向性が見えてくる場合もあります。私たちこの東北人も大きな困難と向き合いそして絆を深めてきたからこそ今ここまで復興してまいりました。

日本人はよくあいまいだと言われますけれども決してそんなことはありません。多岐にわたる選択肢の中から人と人とをつなげてそして良き方向へと考えられる民族です。この「和」の精神を日本の東北から発信していかなければならないと私は思います。

世界中の人と人そして国と国、宗教や文化が互いに敬意の心をもってお互いを尊重しそしてすばらしい世界がこの世の中に実現することを心から深く願います。世界の平和や我々一人一人の人生に幸あれとみんなで祈りましょう。

そして、今日も世界のどこかで食料が無く大変な思いをしている人たち、こういう人たちのために何かできる範囲内で私たちが行動をおこなさなければならない時期だと思います。心を広く持ってみましょう。

この大自然は 微妙でかつ素晴らしいバランスでもって包み込まれております。人間がどのような技術を持ってしても作られない素晴らしい世界に包まれています。ここにいることだけでも感謝だと思います。

そして、人と人、心と心が通い合った時、私たちはこの上もない幸せを感じるものだと思います。そのために私たちはこの地球に生まれてきたんだと思います。皆さんの人生に幸あれと心から願います。ありがとうございました。

「情熱をもって鍛錬を繰り返せば、新たな悟りが見つかるであろう」お釈迦様のこの言葉に導かれ、慈眼寺の塩沼亮潤住職は若かりし頃、「千日回峰行」という、毎日48kmの山道を歩くことを千日間続けるという厳しく辛い修行を乗り越えました。この啓発的なトークの中で、塩沼住職はこの試練について思い返し、自身の経験から得た深遠な智恵を紹介します。

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