秦の「始皇帝」は、独裁者であった。
 
中国の皇帝は、ほとんどが残酷でかつ残忍である
 
毛沢東も「30万人」善良な人を
紅衛兵により殺させました。
 
中国人は古来人を殺すことは平気です
だからこそ
「天安門事件」で
あれだけ多くの学生デモ隊を
銃殺し戦車でひき殺しました。
 
秦の始皇帝はものすごく残虐な人物として知られています。

征服した国の女性や子供を虐殺し、460人もの学者を虐殺し、自分の墓を作った人間を残虐し・・・ とにかくやりたい放題の人間でした。

何故、こんな人間になってしまったのでしょうか?
その答えを紐解くためには、過去の生い立ちにさかのぼらなければなりません。
司馬遷という人物が書いた史記によると・・・
春秋・戦国時代は7つの国が存在していました。

昔むかし、あるところに始皇帝のお父さんだと思われていた子楚(しそ)という人物がいました。子楚は秦の国王の子供でしたが、国王には20人以上もの子供がいて、王位継承とは無縁の人物でした。(趙という国で人質になっていました)
この情報をかぎつけた大商人の呂不韋(りょふい)は考えます。

呂不韋
「俺はすでに大成功を納めることができた。しかし、今までのように布や宝石などを売りさばいてもしれたものだ!それよりも、国を動かす大きな商売がしてみたい」
そこで、呂不韋は人質となっていた子楚に接触するのです。

呂不韋
「私の財力を全て注ぎ込み、あなたを秦の国王にしてみせる。そのかわり、あなたが国王になったら国を共有させてもらいたい!」
人質でうんざりしていた子楚はこの話に飛びつくのでした。

ある時、呂不韋の愛人に一目ぼれをした子楚!呂不韋にこの愛人を自分のものにしたいことを告げるのです。呂不韋も快く応じたようでしたが・・・・・
この時、すでに愛人のおなかの中には始皇帝が宿っていたのでした。つまり、始皇帝は呂不韋の子供だったのです。

そうとも知らず、子楚は始皇帝を自分の子供だと思って生活をするのです。そして、呂不韋は自分の財産を惜しみなく使い、ついに子楚は皇太子にする事に成功したのです。(後に国王になりました)

国王になって二年後に子楚は亡くなり、始皇帝は13歳で国王になりました。当然、政治のことがわかりません。そこで、実権を任せた人物こそが呂不韋だったのです。呂不韋は大出世を果たしたのですね

数年後、始皇帝はある噂を耳にします。
それは自分のお母さんと呂不韋が淫らな関係になっているというものでした。始皇帝はお母さんに問い詰めます。すると、お母さんは過去の経緯を白状したのです。

お母さん
「お前は私と呂不韋の子供なんだよ!だから、おまえは国王の血なんて引いてないんだよ」

始皇帝はショックを受けました。そして、お母さんを許すことができずに死ぬまで監禁状態にしたそうです・・・・ 
呂不韋は自殺してしまいました。
運河を作り国力を上げると、このフラストレーションを戦争につぎ込み、他国との条約(約束事)を完全に無視して侵略を重ね、6国同盟軍を打ち破る事に成功したのです。中国史上はじめて統一を果たすことができたのです。  (雑学研究家 安田 泰淳)
 
  
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