葉隠に生きる「古教心を照らす」
古い教に生き方のヒントはある。
傍目八目(おかめはちもく)にも真理がある
他人の意見や本での知識にも、従ってみる
「自分の考えが一番正しい」とか
「自分以外は信じない」という生き方では
成長はしない。
聞き上手になれるかどうかで
大きく人生が変わる。
聞かざるは、これを聞くにしかず
これを聞くは、これを見るにしかず
これを見るは、これを知るにしかず
これを知るは、これを行うにしかず
学はこれを行うに至りてやむ
良いと知ってもやらなければ、知ったことにはならない。
義とか不義とかを超えたところに真理は存在する。
「葉隠聞書」
不義を嫌ふて義を立つる事成りがたきものなり。
然れども、義を立つるを至極と思ひ、一向に義を立つる故に卻つて誤(あやまり)多きものなり。
義より上に道はあるなり。
これを見付くる事容易に成りがたし。高上の賢智なり。これより觀る時は、義などは細きものなり。こは我が身に覺えたる時ならでは、知れざるものなり。
但し我こそ見付くべき事成らずとも、この道に到り樣はあるものなり。そは人に談合なり。たゝへ道に至らぬ人にても、脇から人の上は見ゆるものなり。
碁に脇目八目と云ふが如し。
念々非を知ると云ふも、談合に極るなり。
話を聞き覺え、書物を見覺ゆるも、我が分別を捨て、古人の分別に付く爲なり。
<訳 >
悪を嫌って正義を通すということは、なかなか難しいものである。
けれども、正しい条理を通すことだけを一番よいことと信じ、
ひたすら正義を尊ぶところに、却って誤りの多く表れるものなのである。
何故なら義とか不義とかを超えたところに真理は存在するからなのだ。
これを発見するのは難しいことである。
それを成し遂げる者は、最も優れた叡知の持ち主といってよい。
この点から眺めれば、条理などというものは小さなことである。
自分の身に感じたときでなければ知ることは出来ない。
しかし、自分でそれを見出し得なかったとしても、この道に至り着く方法はある。
それは、人と話し合うことだ。
たとえ道を究め得ない人であっても、他人のことならわかるものである。
碁でいう傍目八目という言葉のようなものだ。
「思い巡らして非を知る」という言葉があるが、こうしたことも、話し合いに限るものである。
話を聞いたり、書物を見たりして知るというのも、自分勝手な分別を捨てて、古人の考えに遵うためである。