三宝(老子三宝の章)・・・・
 
悠々自適に雲のように水のように自由に生きる)
 
生きる上で三つの「宝」があり
 
それを大切に守り続けている。
 
 
 
三 宝

  老子にいわゆる「老子三宝の章」という有名な一章があります。

我に三宝あり。
 
<持して之(これ)を保つ。>

 
一に曰く慈。
 
二に曰く倹。
 
三に曰く敢(あえ)て天下の先とならず。

慈なり、故に能(よ)く勇。
 
倹なり、故に能く広し。

敢て天下の先とならず、故に能く器の長と成る。
今慈を舎(す)てて且(かつ)勇に、倹を舎てて且広く、後(おく)るを舎てて先んぜば、死せん。

 
≪解釈≫

我に三宝あり。第一に慈。
 
第二に倹。
 
第三に人を先にやる。

世間の人間は先頭になろうとして争うが、そういうことをしない。
慈愛があるから勇気が出る。

倹、つまりくだらぬ私心私欲に関心がないから心が広い。

愚人俗人と競争などしないから自然に大物になる。
今これに反して、慈愛を捨てて勇に、倹約におかまいなく、あれもこれもとなり、人を先にやることを捨てて己(おのれ)が先に立てば、生を失ってしまう。その通りですね。
 
今日のような到るところ矛盾・衝突・混乱の社会になったというのも、要するに人間が慈を捨て倹を捨て省を捨てて功利に走ったからでありまして、こういう社会に生きておると、本当に肉体的にも生命的にもだんだん病的になってまいります。

                            (by安岡正篤師父  一日一言)
 
人は、慈しみの心があるからほんとうのゆうきがだせるのであり、つつましい心ががあるからこそ広く施することができるのです。
 
みんな世の中の人が「俺が・・・俺がという我を出さず、世の人の先に立とうとしない人こそ、器量のある人となり、結局はこのような人が、まわりから押され
尊敬されて上に達人になるのである。
 
ところが昨今の世相を見ると、慈悲の心も無く、私利私欲ばかりで人の後ろにつくのが嫌で無理やり人の上に立とうとする。
 
だから政治家なども駄目な人間が多いいのである。
 
他人を踏み台にして我先に前に出てはならない
 
 
 
 
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