敢えて「主」とならず「客」となる(老子)
 
 
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宮司は、スイスのマッターホルンの「親子登山」から帰って来て、
 
何らかの「心境の変化」が生じている。
 
はっきり言うと・・「ボー」っとして、
 
空を眺めている事が多くなった。
 
「白か黒か」という、生き方や
 
はっきりした考え方がどうでもよくなった。
 
「善い人は悪い人」の見本です
 
しかし・・・こうも考えられます
 
「悪い人は善い人」の反面教師なのです。
 
宮司は、今まで「論語」や「孟子」そして特に「陽明学」を主として、考え方をまとめて来た・・・・どちらかと言えばはっきりした考え方で生きてきた。
 
ところが、スイスから神社に帰ってきたら・・・よく空を見上げるようになった。
 
「雲」や「風」や「水」に心を奪われています。
 
「雲」や「水」のように生きて行きたいと思うようになった。
 
「頑張るとか、むきになるとか、他の考え方を正す」ことなど、どうでもいいように思えてきた。
 
4000メートルでの氷河のそばで可憐に咲く花を見て・・・・・
 
自分が力んで生きることの空しさも感じた。
 
このスイスアルプスの高山植物は、何もむきになって競って咲いているんではない・・・・ただあるがままに咲いているんだとしみじみ思った。
 
今まで・・・何故か中途半端な消極的な「老子」の学問に目もくれず・・今まで走ってきた・・・・しかし・・・今やわらかで、しなやかで、おだやかな「老子」の学問を自分の中に取り入れていこうと思った。
 
スイスアルプスは、さらに宮司を「たおやかさ」を学ばせようとしている。
 
 
上善(じょうぜん)は水の如し、
 
水善(よ)く万物(ばんぶつ)を

利(り)して争(あら)そわず。
 
衆人の悪(にく)む所に処(お)る。
 
故に道に幾(ちか)し。

居(きょ)には地を善(よ)しとし、
 
心は淵(えん)なるを善しとし、
 
与(あた)うるには仁なるを善しとし、
 
言(げん)は信なるを善しとし、
 
政(せい)は治まるを善しとし、
 
事には能なるを善(よ)しとし、
 
動くには時なるを善(よ)しとす。

夫(そ)れ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)なし。

【意訳】

最上の善は、水のようなものである。
 
水は円い器に入れば円くなり、

四角な器に入れば四角になるといったように、
 
決して万物と争わない。
 
しかも衆人がいやがる低い位置に身を置く。
 
だから、水こそ道に近い存在と言える。

ところで善といえば、住居は大地のごとく安定しているのが善い。
心は淵のごとく静かでおだやかなのが善い。
 
与えるには報いを求めることなく仁愛をもってするのが善い。
 
言葉は必ず実行して信義があるのが善い。
 
政治は平安無事に治まるのが善い。
 
事をなすには能力のあるのが善い。
 
動くにあたっては時にかなうのが善い。

そもそも水は決して争わないからこそ、
 
他からもうらまれず、最上の善と言えるのだ。
 
 
水は、天下で最もやわらかく、しなやかである。
 
また、それは強くて堅いものにもっともよく打ち勝つことができる。
 
これは真実で変わることが無い。
 
しなやかなものは、堅いものを負かし、
 
柔らかいものが強いものを負かす。
 
                          (岬 龍一郎著  老子より)
 
知る者は言わず
 
言う者は知らず
 

 
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