西行の出家の謎と吉野奥千本「西行庵」での暮らし。
 
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 おもかげの忘らるまじき別れかな名残りを人の月にとどめて
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宮中を守護する北面の武士隊長(機動隊長)の佐藤義清
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 佐藤 義清(のりきよ)・・・・・・・・西行
イケメンの藤木直人が演じた佐藤義清は17歳年上の珠子に恋する
 
 
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 待賢門院璋子 ( たいけんもんいんたまこ )
 
待賢門院の美しさは日本の歴史を塗り替えるほどの美しさ・・・・
小野小町や静御前と同じくらいの美女
 
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 源平盛衰記によれば、西行の発心の源は恋故とぞ承る。申すもおそれおおくも、上﨟女房を思い懸け進めらせたりける。
 
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宮司は、個人的な独断と偏見で
 
自己流の「結論」から先に言うけれど
 
西行の出家の原因は、
 
待賢門院璋子 ( たいけんもんいんたまこ ) との道ならぬ恋が原因だと考えるのが正しい気がする。
 
宮司は吉野山に住んでみてはじめてなぞが解け始めた・・・
 
それほど吉野山は生活に不便な山奥である。
 
 吉野山の奥の千本で3年間、西行の日々の暮らしは、あまりにも苛酷だったと想像する。
 
着る物はどうしたか、日々の食べ物はどうしたか、村人との関係は・・・・・と考えると結論が導かれてくる。
 
何故ならば
 
その原因を消去法で考えると・・・・
 
幾度となく待賢門院璋子 ( たいけんもんいんたまこ )が吉野の西行庵を訪ね、しばらく西行庵で人目を忍んで逢う瀬を繰り返していたと伝えられている。
 
待賢門院璋子 ( たいけんもんいんたまこ ) が西行を訪ねて、京都に帰る時に、吉野山の人々に「西行」の身の回りの事や
 
食事のお世話など
 
吉野の地元の人々にお願いし、くれぐれも頼んだと伝えられている事からも想像できる。
 
俗説では佐藤義清の「親しい友人が死んだこと」から、人生を絶望し世を儚んで出家したという説には、何故か納得できない。
 
第一佐藤義清には、当時東北に残した妻やこどもがいる、北面の武士のイケメンの隊長が友達が死んだから辞職すると云うのも変である。
 
そもそも武士集団はどこで死んでも防人として当然であり、誉れである。武士は死んでこそなんぼの世界である。
 
親友の死が引きがねで出家したという説には、宮司は納得できない。
 
又政治的なトラブルも妻や子と別れて隠遁出家につながるとは考えがたい。
 
さればやはり・・・やむにやまれぬ高貴な人との道ならぬ果たせぬ恋が原因と考えるしかない。
 
また・・・佐藤義清は、「崇徳上皇」の信頼も厚く、将来を嘱望されていたエリート中のエリートである。
 
又政治的な、仕事での悩みで辞職をして出家などするはずも無い。
 
そのように、その当時の佐藤義清の歌には切ない恋の歌が多い・・身分違いの年上の女性への恋慕の歌がたくさん書かれている。
 
たとえば
「世の中を捨てて捨て得ぬ心地して都離れぬわが身なりけり」
 
どうしても
一人の人を忘れがたく吉野の山奥に隠遁したのであろうと考える方が納得がいく・・・
 
吉野を3年後に出てからも待賢門院璋子 ( たいけんもんいんたまこ )のゆかりの地を訪ねて漂泊の旅をしている。
 
西行の心の中には消して消えない恋があると考えるべきであろう。
 
吉野の奥の千本では、苔清水の水と、待賢門院璋子 ( たいけんもんいんたまこ )の差し入れてくれる米や野菜や豆腐で過ごしたことであろう。
 
月に一度は京都から人目を忍んで待賢門院璋子 ( たいけんもんいんたまこ )が西行庵を訪ねわずか3日ほど泊まり・・・・月を見て桜の散る中で過ごしたのであろう。
 
 
待賢門院璋子 ( たいけんもんいんたまこ )は、切ない気持ちで月を見ながら西行の事を思いやり涙した・・・・
 
 
「知らざりき雲居のよそに見し月のかげを袂に宿すべしとは」
 
「月見れば契りおきてしふるさとのひともやこよひ袖ぬらすらむ」
 
「おもかげの忘らるまじき別れかな名残りを人の月にとどめて」
 
 
馬の背のような「吉野山の人々」も食べ物を西行庵に運び込み、西行さんと親しくなった。
 
 
待賢門院璋子 ( たいけんもんいんたまこ )が西行庵を出て六田の渡しを通過する頃・・・・西行は、西行庵にひれ伏して泣いた・・・涙が袖をぬらした・・・
 
桜桜桜  願はくは 花の下にて 
     春死なん
      そのきさらぎの
           望月のころ桜桜桜
 西行の歌 西行と珠子の思いが歌の中に流れている
 
吉野山 こずゑの花を 見し日より 心は身にも 添はずなりけり

花見れば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ 苦しかりける

あくがるる 心はさても やまざくら 散りなんのちや 身にかへるべき
眺むとて 花にもいたく 馴れぬれば 散る別れこそ 悲しかりけれ
 春風の 花を散らすと 見る夢の さめても胸の さわぐなりけり

心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ
 
西  行

本名佐藤義清(のりきよ)。
生命を深く見つめ、花や月をこよなく愛した平安末期の大歌人。
『新古今和歌集』には最多の94首が入選している。宮廷を舞台に活躍した歌人ではなく、山里の庵の孤独な暮らしの中から歌を詠んだ。

祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれ、幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)となる。
西行は御所の北側を警護する、院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」(一般の武士と違って官位があった)に選ばれ、同僚には彼と同い年の平清盛がいた。北面生活では歌会が頻繁に催され、そこで西行の歌は高く評価された。武士としても実力は一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」の達人だった。
さらには、鞠(まり)を落とさずに蹴り続ける、公家&武士社会を代表するスポーツ「蹴鞠(けまり)」の名手でもあった。「北面」の採用にはルックスも重視されており、西行は容姿端麗だったと伝えられている。
 
今ぞ知る思い出でよと契りしは忘れんとての情けなりけり。

   いとほしやさらに心のをさなびてたまぎらるる恋もするかな。

   あわれあわれ此世はよしやさもあらばあれ来ん世もかくや苦しき

   弓はりの月にはつれてみし影のやさしかりしはいつか忘れむ

 
 
 
待賢門院璋子 ( たいけんもんいんたまこ )
 
待賢門院(たいけんもんいん)璋子(たまこ)
とは、鳥羽天皇の中宮。  (1101~1145)
さらに、崇徳天皇と後白河天皇の母です。

璋子は幼くして父をなくしたため、白河法皇と
祇園女御(ぎおんのにょうご)とに可愛がられて
育った、とされます。

この璋子の素行について、悪いウワサがあったようで、
そのために藤原忠実は、嫡男である藤原忠通との縁談が
あったときに、断りました。

ところがところが、その「たまこさん」が鳥羽天皇に入内。
藤原忠実としては、断ったその女性が天皇の奥さまになった
のですから、焦ったことでしょう。


ちなみにドラマの「平清盛」では、天皇に入内した璋子が
寂しいだろうと考えて、鳥羽天皇は早々に白河法皇のもとに
里帰りさせます。
 しかし・・・
その誠意を裏切るかのように、璋子は白河法皇から、
不実の愛を受けてしまい、鳥羽天皇は歯ぎしりして嫉妬
します。
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