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島育ち・・・田端義夫さんのご冥福をお祈りいたします

訃報  バタヤン死す     島育ち ・・・ 田端義夫

宮司の好きな歌・・・・「島育ち」・・・胸が熱くなり涙が出る



『島育ち』       作詞:有川邦彦  作曲:三界稔   (1939年作)


(1)
  赤い蘇鉄(ソテツ)の 実も熟れる頃
  加那(カナ)も年頃 加那も年頃
  大島育ち

(2)
  黒潮(クルシュ)黒髪(クルカミ) 女身(ウナグミ)ぬかなしゃ
  想い真胸(マムネ)に 想い真胸に
  織る島紬(シマツムギ)

(3)
  朝は北(ニシ※)風 夜(ヨ)は南風
  沖(オキ)ぬ立神(タチガミャ) 沖ぬ立神
  また片瀬波

(4)
  夜業(ヨナベ)オサオサ 織る筬(オサ)の音
  せめて通わそ せめて通わそ
  此の胸添えて


歌手の田端義夫さん死去 「島育ち」「十九の春」「大利根月夜」


  

田端義夫さん=1965年ごろ
 「大利根月夜」や「十九の春」など多くのヒット曲を歌い、“バタやん”の愛称で親しまれた歌手の田端義夫(たばた・よしお、本名田畑義夫〈たばた・よしお〉)さんが東京都内の病院で死去したことが、25日わかった。94歳だった。

 1919年、三重県松阪市生まれ。3歳で父を亡くし、商家での丁稚(でっち)奉公や旋盤工で家計を支えながら独学で歌とギターを身につけた。

 38年にアマチュアコンクールで優勝し、39年「島の船唄」でプロデビューした。同年発表の「大利根月夜」が大ヒット。続く「別れ船」や46年の「かえり船」などの“船シリーズ”、「玄海ブルース」(49年)とヒットを連発した。一時期人気が低迷したが、63年に「島育ち」がヒット、紅白歌合戦に初出場し、“奇跡のカムバック”と言われた。

 75年には沖縄の愛唱歌「十九の春」を歌ってヒット。胸元までギターを抱え上げて「オース!」と気さくにあいさつしながら登場するスタイルと、音域の広さは晩年まで健在だった。その後も、BEGINの比嘉栄昇作詞・作曲の「旅の終わりに聞く歌は」や「涙そうそう」を発表し、70年を超す歌手人生を凝縮したような味わい深い歌唱を披露していた。

 89年、勲四等瑞宝章。95~03年、日本歌手協会会長を務めた。今年5月18日から、ドキュメンタリー映画「オース!バタヤン」が公開される。


「バタヤン」田端義夫さん死去 享年94歳 肺炎のため
シネマトゥデイ 4月25日(木)17時14分配信 

  

田端義夫さんご冥福をお祈りいたします
 昭和を代表する歌手の一人で、「バタヤン」の愛称で知られた歌手の田端義夫さんが25日、肺炎のため都内病院で亡くなった。94歳だった。

 田端義夫音楽事務所によると、田端さんは2010年3月31日に自宅で転倒したため病院に搬送され、胃潰瘍が見つかり入院。今月24日に容態が急変し、25日午前11時45分、家族に見守られながら息を引き取った。闘病中も新曲・舞台への思いを消さず、新たなアルバムや大阪での公演を追った映画『オース!バタヤン』の公開を楽しみにしていたという。

 田端さんは1919年1月1日生まれで、三重県松阪市出身。1925年に大阪に移り住み、1938年に吉本興業主催のアマチュア歌謡コンクールで優勝。1939年に上京し「島の船唄」でデビューした。その後も「梅と兵隊」「島育ち」「かえり船」などヒット曲を連発。また俳優としても『母を慕いて』『アジャパー天国』『ハワイ珍道中』など数々の映画作品に出演した。

 ステージでは、エレキギターを高い位置で構え、威勢よく「オース!」とあいさつする姿で知られた田端さん。1989年には勲四等瑞宝章を受章。1995年には社団法人日本歌手協会の会長に就任し、2003年に名誉会長に就任。総レコーディング数は約1,200曲、シングルは400枚以上、アルバムは300枚以上に上るなど、精力的に活動した。通夜・告別式などの詳細は未定。(編集部・入倉功一)









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