宿かさぬ 人のつらさをなさけにて おぼろ月夜の 花の下ぶし

                               (蓮月)

今夜一晩の宿を貸してくれない人の無情さを、

むしろ思いやりとして、

朧月夜の桜の花の散る下で野宿するのであるよ。

おかげさまで夜桜と朧月が綺麗だった・・・

うらやまし 心のままに咲きてとく すがすがしくも 散る桜かな
 
【通釈】羨ましい。心のままに咲いて、早速、ためらいもなく爽やかに散る桜であるよ。
 
万代 ()の 春のはじめと歌ふなり こは敷島の やまと人かも
 
【釈】万年にもわたって繰り返し訪れる春の、その始まりを祝して歌っているよ。これは大和の人が歌うのだろうか。
 
 
つれづれと 春のながめの手すさびに  掬 ( むす ) びてながす 軒の糸水
 
【通釈】なんとなく寂しくて、しとしとと長雨の降る春の景色を眺めている――そんな時の手慰みに、手のひらに掬っては流す、軒から垂れる雨水よ。
 
墨染の 袖にも梅のかをりきて 心げさうの すすむ夜半かな
 
【釈】墨染の衣の袖にも梅の花が香ってきて、化粧したような気分がおのずと湧いて来る夜であるよ。
 
 
梅が香に ささぬ 外面 ( とのも ) を唐猫の しのびて過ぐる 夕月夜かな
 
【通釈】梅の香りのために明け放してある家の外を、猫が一匹、忍んで過ぎてゆく夕月夜よ。
 
明けぬるか ほのかすみつつ山の端の きのふの雲は 花になりゆく
 
【通釈】夜が明けたのだろうか。ぼんやり霞みながら、山の端に昨日残っていた雲は晴れて、桜の花に取って変わられてゆく。
 

大田垣 蓮月( おおたがき れんげつ)

寛政三~明治八(1791-1875) 俗名:誠(のぶ)

伊賀上野城代家老職、藤堂新七郎良聖(よしきよ)の庶子という。
 
生後すぐ、京都知恩院の寺士、大田垣伴左衛門光古(みつひさ/てるひさ)の養女となる。少女期、但馬亀岡城に奥勤めとして奉公し、薙刀ほか諸芸を身につけた。
文化四年(1807)、十七歳の時、大田垣家の養子望古(もちひさ)と結婚。一男二女をもうけたが、いずれも夭折した。夫の放蕩により、同十二年(1815)、離婚し、京都東山の知恩院のそばに住む。
 
文政二年(1819)、二十九歳の時、大田垣家に入家した古肥(ひさとし)と再婚し、一女を得たが、四年後夫は病没。葬儀の後、養父と共に知恩院で剃髪し、蓮月を称す。
 
二年後、七歳の娘を失い、さらに天保三年(1832)、四十二歳の時、養父を亡くす。その後は岡崎・粟田・大原・北白川などを転々とし、急須・茶碗などを焼いて生計を立てた。やがてその名は高まり、自作の和歌を書きつけた彼女の陶器は「蓮月焼」と呼ばれて人気を博するようになる。
 
しかし自身は質素な生活を続け、飢饉の際には三十両を匿名で奉行所に喜捨したり、資財を投じて賀茂川の丸太町に橋を架けたりしたという。慶応三年(1867)秋、西賀茂の神光院の茶所に間借りして、境内の清掃と陶器制作に日を送り、明治八年(1875)十二月十日、八十五歳で逝去した。

和歌は上田秋成香川景樹に学び、小沢蘆庵に私淑したという。穂井田忠友橘曙覧(あけみ)・野村望東尼(もとに)ら歌人のほか、維新の志士とも交流があった。なお、のち画家として名を成す富岡鉄斎は、蓮月尼老年の侍童である。明治元年(1868)、『蓮月高畠式部二女和歌集』が出版され、同四年には近藤芳樹編の家集『海女の刈藻』が刊行された。
 
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