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                              (仙堂新太郎先生を迎えて)
白拍子舞・・・・・・・・・桜井真樹子
鼓・・・・・・・・・・・・・・仙堂新太郎
鼓・・・・・・・・・・…・・今井 尋也
 
義経・静御前の哀史
 霊感の強い人は義経潜居の間に入っただけで身が震える
 
 「吉野山 峰の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」
 
と歌われたようにその天下に義経と静の大ロマンスの舞台でもあります。
 
悲運に生きた英雄と佳人との雪路の別れを、今に追想するあまりにも悲しい悲恋物語の空気を実際に感じられる場所です。
 
義経28歳、静16歳、弁慶33歳の時でした。義経の鎧を見てみると小さな男の人だった事がわかります。静の着物も奇麗に保存されています。
 
 
「義経北行伝承」
 
義経や静御前には、歴史のロマンがある。
 
義経や静御前や弁慶の伝説が各地方で多く語られているのは
 
それだけ多くの国民に愛されてきたからです。
 
日本人の感性に合った素敵な「ヒーロ・ヒロイン」だからです。
 
はたして・・・山伏に変装して吉野の吉水神社から逃げた義経たちはいずこに・・

○ 義経の 行方も知れず 吉野山


義経は奥州平泉で死んだのか?
 
 
弁慶の立ち往生の後ろで、
 
義経の影武者が自害して果て

義経は岩手・青森・北海道に逃げたともいう・・・・
 
まさか?
義経は、大陸に渡り「チンギス・ハーン」になったとも伝承されている。

大変大きく夢のある話に・・・・
 
吉水神社に所蔵されている
 
重要文化財の『義経の鎧(よろい)』や
 
静御前の着物が動いた気がした・・・・
 
 
歴史はロマンです
 
義経北行伝説
 
初めて記したのは、林羅山の歴史書『本朝通鑑』(1670年)である。
「義経衣川の役で死せず。逃れて蝦夷島に到り、その遺種存す」
徳川光圀は一六八八年海風丸を蝦夷地に派遣する。
蝦夷地探検と義経伝説の真偽を確かめるためである。
海風丸は蝦夷地に義経・弁慶にちなんだ地名があること、義経がアイヌの人達からウキクルミ(狩猟や農耕をアイヌの人に教えた神)として崇められていることを報告している。

林羅山はこの『本朝通鑑』の前、1643年に『本朝神社考』を書いている。
『本朝神社考』には歴史上の人物の伝説が集大成されているが、この中に義経伝説は書かれていない。
1643年から1670年の間に義経北行伝説が広まったものと考えらる。
一体何があったのか?
光瀬龍氏は、1669年のシャクシャインの蜂起が原因だと考えている。
これがきっかけとなり蝦夷地への関心が急速に高まり、以前より蝦夷地に渡った和人がアイヌに語っていた「御曹子島渡り」などの義経の話が逆輸入された。
また、幕府や松前藩が蝦夷を支配するのに義経=ウキクルミが都合がよかったのではないかともいう。

義経入満伝説

では義経が満州に渡ったという話は?義経入夷伝説と同じ頃、「金という国の中の範車国の将軍源義鎮は源義行(=義経)の子である」という噂が流れ、様々な書物がその文章を引用し、この出典を『金史別本』であるとした。

新井白石は友人に『金史別本』を確認したいと再三書いているが、誰もその書物を入手したものがいない。
やがて『金史別本』は近江の沢田源内なる人物が作った偽本であると判明した。

また森長見の『国学忘貝』では「金国を再建した清の六代目乾隆帝が、"朕の姓は源、義経の子孫であり、清和源氏出身なので国号を清にした "と『図書輯勘録』に記している」としたが、これも幻の文書であることが判明して偽書騒ぎは終わっている。

1809年、カラフトを経て大陸に渡ることに成功した間宮林蔵の探検の目的の一つに、義経伝説の真偽を探るという事があった。
間宮はアムール川流域で現地の人々に義経の事を尋ねた。
すると「漢土の天子(今の中国の皇帝)は日本人の末と聞いている」と誰もが答えたという。
 
蒼き狼となった義経が・・・鎌倉幕府を、
 

赤々と燃ゆる紅葉の一枝を判官の座にそっと手向けん
http://www.st.rim.or.jp/~success/20041108_03.jpg


吉水神社の書院に入ると、空気が一変した気がした。この建物は、初期書院建築の代表的な傑作とのことだ。ただそれだけではない。ここには800年間の時空を越えた独特の風が流れている気がする。正面の扉は大きく開け放たれて、まだ紅くならずにいる紅葉が、目に染みこむように飛び込んでくる。歩くたびに、木の床がきしむ音がする。五、六歩行って左手に「源義経潜居の間」と呼ばれる部屋がある。14、5畳ほどの広さだ。壁を背景にした上座には、義経が着座していたと思われる場所に、一段高くした御座(上畳)はなく、二個の丸い藁の丸い敷物が無造作に置いてあった。まさか義経と静がそこに仲よく着座していたとは思われないが、何かそのような雰囲気で並んでいる。その横には、義経所蔵と云われる鎧がガラスケースに収まって据え付けられている。実際には、鎧ではなく、「色々威腹巻」(いろいろおどしのはらまき)と云われるもので、衣の下に付ける防具だそうである。近くでまじまじと拝見したが、何しろ八百年前の物のはず、ボロボロかと思えば、まったくその逆で、昨日仕上げた作のような初々しさが漂っていた。特に胴の辺りからから下にかけての細工は見事なもので、日本人の職人の手の器用さを改めて痛感した。義経の座の左手には、「弁慶思案の間」と名付けられた1畳ほどのスペースがある。ここで弁慶が、吉野から奥州への脱出プランを練っていたとの話だが、この場にしばし佇んで目を閉じると様々なことが頭に浮かんできた。

いったい何故、兄頼朝は、弟をあれほど執ように追求して死に追いやってしまったのか・・・?

元暦元年(1184)2月7日、一の谷の合戦の大勝利によって、一躍時の人となった源義経は、翌年の文治元年(1185)3月24日、壇ノ浦の海戦で平家一門を打ち破って、空怖ろしいほどの天賦の才を発揮し源氏軍に大勝利をもたらしたのであった。だが、その途端に、義経の運命は変転した。原因は義経の任官をめぐる兄頼朝の勘気と云われているが、そのようなものではないような気がする。頼朝と云えども、その後見には北条時政がいる。彼は北条氏の婿に他ならないのである。今日政治家としての頼朝の手腕が高く評価されているが、これはまったく変な話で、鎌倉の武者たちにとって、源頼朝という人物は、自己の権益を京都の朝廷と公家たちに認めされるための錦の御旗あるいは方便に過ぎないのである。
この説を語る根拠はたったひとつである。それは大政治家の頼朝は、弟の義経を自害に追い込んだ後、わずか10年後に、原因不明の事故によって亡くなっている。もしも仮に、多くの歴史家や小説家がいうように頼朝が天才的な政治家であったならば、自分の死後において、自らの子孫達が、呆気ない死に方をして、源氏の血流が途絶えるような愚を犯すであろうか。しかも彼の死は、落馬が原因であると云う。武将の棟梁たるものが、たとえウソでも死因を落馬となど伝えられるものではない。そこには、鎌倉の武者たちのどす黒い陰謀の匂いがする。頼朝の専横が目立ち、このままでは、せっかく清盛一門を打ち破ったのに、頼朝自身が、新たな清盛いや朝廷のような立場になる可能性を怖れたのではあるまいか。後世の人々は、その後様々に頼朝の死を噂し合った。平家と義経の亡霊を見て馬が暴れたとか、何とか。おそらくそれは真実を覆い隠すための隠蔽のための噂に過ぎない。亡霊が頼朝を呪い殺すより、奥州藤原氏を滅ぼし、まさにわが世の春を迎えた鎌倉の豪族たちこそが、、頼朝が絶大な立場に就くことを許さなかったと見るべきが自然であろう。


ともかく、頼朝が本来頼るべきは、弟の義経その人であった。しかし彼の取り巻きの者たちは、大将軍頼朝を単なる傀儡(かいらい)のようにしか考えていなかった。そこでまず兄と弟を離反させて弟を討った後、然るべきタイミングで、兄頼朝を闇夜に葬ったと思うのである。ある意味、立場の弱い頼朝にとっては、仕方のない選択であったと見るべきかもしれない・・・。



頼るべき九郎冥府に旅立たせやがて消されし人また哀れ
 
(佐藤弘弥氏の紀行文)
白拍子舞・・・・・・・・・桜井真樹子
鼓・・・・・・・・・・・・・・仙堂新太郎
鼓・・・・・・・・・・…・・今井 尋也

仙堂新太郎(Shintaro Sendo):小鼓・大鼓・締太鼓

兵庫県出身/桐朋学園大学打楽器科卒業/
0歳の頃から打楽器を山口十朗氏に師事/
桐朋学園在学中に、鼓奏者藤舎呂船の門下に入門/
能楽を仙堂新之丞氏に師事、後継として仙堂新太郎を襲名する。

1882年日本音楽集団に入団、団員として1988年松尾芸能特別賞、
1990年第20回モービル音楽賞を受賞、
市川猿之助スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」・「オグリ」・「八犬伝」の音楽制作
1989年フランス革命200年祭記念公演で京都市交響楽団と共演/
1990年タイ王国日本週間に招かれる/
1991年オーストラリアでホテルニッコー・ダーリングハーバーの
オープニングセレモニーを企画演出。
ニューヨークではF1のCM音楽制作を担当/
1995年バルト三国のエストニア共和国国立教育大学で講演と演奏/
1998年よりスイス国立音楽院客演講師を務めるとともに、
京都に本拠地を置く風流打楽祭衆の音楽監督を勤める/
1999年東京音楽大学邦楽科の非常勤講師に就任。

作曲家として、新作能「かわいい女」、
琵琶と鼓による「卑弥呼幻想曲」「額田の女王」、


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