日本という国柄を知る上で必読の書
 
それは『神皇正統記』です。
 
「君と民」のあり方を知るためにも重要です。
 
忠臣「北畠親房公」こそ、
 
嗚呼忠臣「楠木正成公」と並ぶ、
 
後醍醐天皇の忠臣です。
 
北畠親房公の書物は、戦後の人間が書いたものは、左翼的に批判したものが多い・・・北畠親房公を「彼は・・・・」と友達のように書いた書物など最悪である
 
断じて佐藤優氏のような隠れ極左に騙されてはいけない
 
小沢が楠木正成などと言う馬鹿を相手にしてはいけない
 
佐藤優氏の「神皇正統記」は斜めから穿った見方で
 
気持ちが悪い・・・油断できない男である 
 
ロシア革命を日本に当てはめる「プーチン」か?
 
マルクス主義の右翼を標榜する隠れ極左だと見て間違いない
 
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建武の中興や南北朝の時代に活躍した
 
忠臣「北畠親房公」という英雄です。
 
忠臣 「北畠親房公」は、
 
鎌倉時代の末期、14世紀の初めのわが国には、
 
精神的な権威を放つ朝廷が京都に、
 
政治的な実権を担う幕府が関東に存在していました。
 
忠臣「北畠親房公」は、そのような時代に、32歳で大納言となりました。
 
大納言は、朝廷の最高機関である太政官の次官に当たる要職です。
 
 
忠臣北畠親房公は、後醍醐天皇の側近として
 
第二皇子・世良(ときよし)親王の養育に努めました。
 
しかし、元徳2年(1330)、親王が急逝されたために
 
忠臣親房公は、出家して政界を退きました。
 
しばらくして、北条氏のもと腐敗・堕落を続けていた鎌倉幕府が、
 
元弘3年(1333)滅亡に至り、
 
「後醍醐天皇による建武の中興」が始まりました。
 
忠臣「親房公」は再び朝廷に出仕し、新政府の下、
 
義良(のりなが)親王を奉じて、
 
長男顕家とともに奥州に下り、
 
その地の行政に力を尽くしました。
 
 
そのうち、中央では「後醍醐天皇」を
 
国賊として名も高い
 
足利尊氏が謀反を起こし天皇を裏切りました。
 
 
忠臣「親房公」は
 
反乱軍の国賊「足利尊氏」を追って上京し、
 
そのまま京都にとどまって国政に加わります。
 
朝廷側は国賊の「尊氏」を一時九州に追いやったのですが、
 
国賊の尊氏に押し返され、
 
劣勢やむなく
 
京都の花山院から
 
後醍醐天皇は吉野の吉水院に逃れられました。
 
すると、
 
国賊の尊氏はあろうことか光厳天皇を立てて北朝を創設し、
 
ここに南北朝の並立というわが国史上に前例のない異常な事態となりました。延元元年・建武3年(1336)のことです。
 
忠臣「親房公」は
 
吉野の南朝皇居吉水院にあって、
 
幕府と対抗していました。
 
ところが、延元3年・暦応元年(1338)、
 
義良親王とともに出帆した時、
 
船が難破してしまいました。太平洋を漂流した忠臣「親房公」は、
 
奇しくも一人東国に流れ着きます。
 
忠臣「親房公」は、逆境に挫けることなく関東で決起しました。
 
そして、北朝方との戦いを続けていたところ、
 
忠臣「親房公」のもとに
 
後醍醐天皇崩御という知らせが来たのです。
 
南朝の天皇は、難破を生き延びていた義良親王が継いだといいます。
 
後村上天皇です。
 
感慨に堪(た)えぬ親房は、一書をしたためました。
 
こうして、延元4年 (1339)9月、常陸小田城にて完成したのが
 
『神皇正統記』です。
 
忠臣「親房公」はその後、
 
京都に戻って南朝の中心として活躍し、
 
正平9年(1354)、62歳で没しました。
 
さて、忠臣「親房公」の著『神皇正統記』は、
 
日本という国はどうして建国されたか、
 
この国の理想は何か、本質は何か、
 
建国以来その基底に流れている精神はどのようなものかを説いたものです。
 
冒頭は「大日本は、神国なり。
 
天祖始めて基を開き、日神長く統を伝へ給ふ。
 
我国のみ此の事有り。
 
異朝には其の類無し。
 
此の故に「神国といふなり」と始まります。
 
ここには、元寇を通じて高まった、
 
日本は神国であるという自覚が明確に述べられています。
 
そして、天照大神が国の基を開いてより、
 
その子孫が皇統をずっと伝えてきている。
 
これは他国には見られない。
 
それゆえに、日本を神国というのだと述べています。
 
 続いて、忠臣「親房公」は『古事記』『日本書紀』等に基づきながら、当代の後村上天皇に至るまでのわが国の歴史を書き表しました。
 
記述には、忠臣「親房公」独自の見解が多く見られます。
 
その特徴の一つは、天皇には、血統や神器の保有だけでなく、
 
君主としての徳がなければならないという主張です。
 
たとえば、後嵯峨天皇の件(くだり)に、次のようにあります。
 
「神は人を安くするを本誓とす。天下の万民は皆神物なり。
 
君は尊くましませど、一人を楽しましめ、万民を苦しむる事は、天も許さず、神も幸せぬいはれなれば、政(まつりごと)の可否に随ひて、御運の通塞(つうそく)あるべしとぞ覚え侍る」。
 
すなわち、神は人が安心して暮らせることを願っている。
 
天下の万民はみな神のものである。だから、天皇一人だけが楽しくして、人民を苦しめるようなことをすれば、天は許さないし、神も喜ばない。
 
天皇は、良い政治をしているかどうかによって、自分の運命が開けもし塞(ふさ)がりもする、と親房は書いています。
 
これは、天皇への教訓でした。
 
忠臣「親房公」は、承久の変や建武の中興を通じ、天皇が道を行い、徳を磨いて仁政を行うのでなければ、その地位だけでなく、国の本質をも守ることはできないと痛感していたのです。
 
また、忠臣「親房公」は、国民の在り方についても、書き記しています。「朝夕に長田狭田(さた)の稲の種をくふも皇恩なり。昼夜に生井栄井(いくゐさくゐ)の水の流を呑むも神徳なり。
 
是を思ひも入れず、あるに任せて慾をほしいままにし、私を先として、公を忘るる心あるならば、世に久しき理(ことわり)侍(はべ)らじ」。
 
すなわち、神の徳と皇室の恩に感謝せず、欲望のままに「私」を先にして「公」を忘れるならば、権勢は続かず滅びることになると、説いているのです。このことは平氏や北条氏に前例があり、やがて足利氏にも当てはまることになりました。
 
『神皇正統記』は、南朝の天皇や側近・将士にとって心の支えとなりました。
 
その後、戦国時代には、広く全国各地で書写されて読み継がれました。
 
江戸時代の学者は、本書によってわが国の本質を理解し、敬神尊皇の自覚を高めました。
 
そして本書の精神が、明治維新の源流の一つともなっていったのです。
 
日本の建国の由来、この国の理想・本質、建国以来その基底に流れている精神、そしてそれらが明治以後の日本にどのように受け継がれてきたのかを考える際、『神皇正統記』は興味の尽きない名著です。
 
 
序論
 
大日本おほやまと 者 ( は ) 神國 ( かみのくに ) 也。
 
天祖 ( あまつみおや ) ハジメテ 基 ( もとゐ ) ヲヒラキ、 日神 ( ひのかみ ) ナガク 統 ( とう ) ヲ 傳 ( つたへ ) 給フ。
 
我 ( わが ) 國ノミ此事アリ。 異朝 ( いてう ) ニハ其タグヒナシ。
 
此故ニ 神國 ( かみのくに ) ト 云 ( いふ ) 也。
 
  神代 ( かみよ ) ニハ 豐葦原千五百秋瑞穗 ( トヨアシハラノチイホノあきノミヅホノ ) 國ト云。
 
天地開闢 ( てんちかいびやく ) ノ 初 ( はじめ ) ヨリ此 名 ( な ) アリ。
 
天祖 ( あまつみおや ) 國常 ( くにのとこ ) 立尊 ( たちのみとこ ) 、 陽神陰神 ( をがみめがみ ) ニサヅケ給シ 勑 ( みことのり ) ニキコエタリ。
 
天照太神 ( あまてらすおほみかみ ) 、 天孫 ( あめみま ) ノ尊ニ 讓 ( ゆづり ) マシマシシニモ、
 
此名アレバ 根本 ( こんぼん ) ノ 號 ( な ) ナリトハシリヌベシ