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後醍醐天皇の「花と哀史」
 
今日は「桜もまだつぼみですが
 
南朝についてお話をしてみたいと思います。
 
花といえば『桜』桜といえば『吉野』
 
そして、あの桜の花のように見事あざやかに咲き、
 
はかなく散り舞った後醍醐天皇の花の生涯こそ、
 
今も歴史を越えて多くの人々の心を熱くさせて涙がこみ上げてきます。
 

 この吉水神社は、
 
後醍醐天皇の行宮であったことから
 
全国の人々が訪ねる
 
『南朝の皇居』とされています。
 
 
後醍醐帝は、足利尊氏の謀反により
 
京都から行幸されて大和に入られた
 
西吉野の賀名生に身をお隠しなられ
 
いずれかを皇居とすべきか迷い求められた時に、
 
当時の吉水院の住職であった、
 
「吉水宗信法印」が、
 
吉野全山の僧や大衆を集めて『後醍醐天皇を奉迎すべし』と
 
壬申の乱の故事を語り『反対者あらば吾を殺して行け』とまで叫んで、
 
説得して、天皇をここ吉野の吉水院に迎えられました。

 今、宗信法印のことを語る人は少なくなったが
 
かつて見識のある辰巳長楽翁は、
 
吉水宗信がいなければ、
 
南朝は吉野にはなかったとまで断言された。
 
後醍醐天皇は、吉野から三百人もの僧兵や、
 
楠、和田、西阿等の諸将に護られ、
 
延元元年(一三三六)宗信法印の僧坊である『吉水院』を行在所として
 
入御あそばされそれ以来、
 
吉野は五十六年間の帝都すなわち皇居となったのです。

 今も『後醍醐天皇の玉座の間』があり、この前で沢山の人々が涙を流し

 花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に岩はしる音

と歌われた天皇の御製が心にしみてきます。
 
情熱家で行動派の天皇の激動の人生を思うと胸が熱くなります。天皇親政の建武中興を理想として、
 
博学で、朱子学に明るく、また仏法にも志が深く、
 
和歌にすぐれ音楽にもその才を見せられたすばらしい花の生涯を、
 
五十二才の若さで崩御されたことは、あまりにも哀しく、
 
頼山陽、熊澤審山、本居宣長等が天皇のありしお姿を思い浮かべて、
 
吉水院で声を上げて長い間、
 
涙を流したと伝えられている。
 
 
ああ、「桜の花」のごとき帝の一生でございました。

 
 
こと問はむ 人さへ稀(まれ)になりにけりわが世の末の程ぞ知らるる
 
           (新葉集「巻第19哀傷歌」の章) 
露の身を 草の枕に置きながら 風にはよもと 頼むはかなさ
                (新葉集「巻第18雑下」の章
 
 
 
 
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