われこそは、「大塔宮護良親王」なりと、
 
身代りとなって
 
「村上彦四郎義光公」は、影武者として壯烈な自刃を遂げた。
 
 
宮司は、「村上義光公と其の子息・村上義隆公」を尊敬しています。
 
護良親王の身代わりに自決した忠義は尊い!
 
 
 
 
 
 
 「村上彦四郎義光公」卒塔婆透の鍔(鍔を造る時から大塔宮の身代わりで殉死を覚悟であった(吉水神社所蔵・・・・国指定文化財)
 
 


 

 

 

 
 村上彦四郎義光(よしてる)公については、
 
村上義光公と其の子息・村上義隆公の 護良親王樣に殉じた壯烈無比な最期の樣子について記しておきます。

 村上義光公は信濃源氏の裔、
 
村上信泰の子である。
 
其の子息、村上義隆公も吉野城の防禦戰で、父・義光と共に 大塔宮・護良親王樣に殉じた。

 義光公は「太平記」の記述に依れば、元弘の變の後に、南都の般若寺から熊野へ逃れる 護良親王樣に扈從し、其の道中で敵方に奪はれた錦の御旗を取り返して大いに武名を揚げた、と云ふ。

 元弘三年正月十六日、遂に二階堂出羽入道道蘊が 護良親王軍が據つて居られた吉野の山城に攻め寄せて來た。此れは、其の折の悲劇である。

 元弘三年正月、吉野山城が二階堂出羽入道道蘊貞藤の軍勢に大いに攻め立てられ、將に陥落せむとするに際して、 護良親王樣を落ち延びさせ給ふべく、親王様の鎧直垂・具足を半ば奪うが如くして我が身に帯びた。
 
そして、吉野城の二の木戸の高櫓に仁王立ちとなり、
 
大音聲で以て
 
「 天照太神御子孫、 神武天王より九十五代の帝、 後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁(そんにん)、逆臣の爲に亡され、恨を泉下に報ぜん爲に、只今自害する有樣見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と叫び、
 
「我こそ親王なり」と僞り名乘つて、 護良親王様の身代りとなつて壯烈な自刃を遂げた。腹眞一文字に掻き切つて、自らの腸を摑んで投げ付けた、と聞く。

 此の今生の別れに先立ち、 護良親王樣は臣・義光に對し、「爭(いか)でかさる事あるべき、死なば一所にてこそ兎も角もならめ」、「我若(もし)生たらば、汝が後生を訪(とぶらふ)べし。共に敵の手にかゝらば、冥途までも同じ岐(ちまた)に伴ふべし。(私がもし生き延びられたら、お前の後生を弔はう。共に斃れた其の時は、冥途の旅路にも伴ふぞ)」とまで仰せ給ひたる由が、太平記・巻七に傳へられてゐる。
 義光公の墓所は、吉野神宮の南約1km、不動坂を登りつめた丘の上に立つ寶篋印塔である、と傳へられてゐる。又、墓の右脇には天明三年(1783)に大和高取藩士・内藤景文によつて立てられた、村上義光忠烈碑が有る。  

 此の時、子息の村上義隆公も、父・義光と生死を共にせむとするも、義光は堅く之を諌めて止め、最後の最後に至るまでも 護良親王樣を御守り奉る可く遺言した。

 そして村上義隆公は此の父の遺言を奉じて、 護良親王様を落ち延びさせ給ふ爲、此の地に留まり單身衆敵と奮戰敢闘の果て、滿身創痍となり力盡きて割腹したと云ふ。時に元弘三年(正慶二年)閏二月一日(1333年4月15日)。僅か十八年の生涯であつた。
 村上義隆の墓は、勝手神社樣の南西方約2kmの路傍に在る。石塔は高さ約75cm、明治三年(1870)に建てられた。 尚、勝手神社樣の社殿は眞に殘念ながら平成十三年(2001)に放火に因り焼失、假社殿は吉水神社境内に鎭座ましましてゐる。



『太平記 巻第七』
○吉野城軍事

元弘三年正月十六日、二階堂出羽入道道蘊(だううん)、六萬餘騎の勢にて大塔宮(おほたふのみや)の籠らせ給へる吉野の城へ押寄る。
 
菜摘河(なつみがは)の川淀より、城の方を向上(みあげ)たれば、嶺には白旗・赤旗・錦の旗、深山下風(みやまおろし)に吹なびかされて、雲歟(か)花歟(か)と怪まる。麓には數千の官軍、冑(かぶと)の星を耀かし鎧の袖を連ねて、錦繍をしける地の如し。峯高して道細く、山嶮して苔滑なり。
 
されば幾十萬騎の勢にて責る共、輒(たやす)く落すべしとは見へざりけり。同十八日の卯刻より、両陣互に矢合せして、入替々々(いれかへいれかへ)責戰。(中略)夜昼七日が間息をも不續相戰に、城中の勢三百餘人打れければ、寄手も八百餘人打れにけり。
 
況乎(いはんや)矢に當り石に被打、生死(しやうじ)の際(あひだ)を不知者は幾千萬と云數を不知。血は草芥を染、尸(かばね)は路径に横はれり。され共城の體少もよわらねば、寄手の兵(つはもの)多くは退屈してぞ見へたりける。
 
爰に此山の案内者とて一方へ被向たりける吉野の執行(しゆぎやう)岩菊丸、己が手の者を呼寄て申けるは、「東條の大将金澤右馬助殿は、既に赤坂の城を責落して金剛山へ被向たりと聞ゆ。
 
當山の事我等案内者たるに依て、一方を承て向ひたる甲斐もなく、責落さで數日を送る事こそ遺恨なれ。倩(つらつら)事の樣を按ずるに、此城を大手より責ば、人のみ被打て落す事有難し。推量するに、城の後の山金峯山(きんぶせん)には峻を憑(たのん)で、敵さまで勢を置たる事あらじと覺るぞ。
 
物馴たらんずる足輕の兵を百五十人すぐつて歩立(かちだち)になし、夜に紛れて金峯山より忍び入、愛染寶塔(あいぜんはうだふ)の上にて、夜のほの/゛\と明はてん時時(とき)の聲を揚よ。城の兵鬨音(ときのこゑ)に驚て度を失はん時、大手搦手三方より攻上て城を追落し、宮を生捕奉るべし。」とぞ下知しける。さらばとて、案内知たる兵百五十人をすぐッて、其日の暮程より、金峯山へ廻て、岩を傳ひ谷を上るに、案の如く山の嶮きを憑けるにや、唯こゝかしこの梢に旗許を結付置て可防兵一人もなし。
 
去程に、搦手の兵、思も寄ず勝手(かつて)の明神の前より押寄て、宮の御坐有ける藏王堂へ打て懸りける間、大塔宮今は遁れぬ處也。と思食切(おぼしめしきつ)て、赤地の錦の鎧直垂に、火威(ひをどし)の鎧のまだ巳の刻なるを、透間もなくめされ、龍頭(たつがしら)の冑の緒をしめ、白檀磨(びやくだんみがき)の臑當(すねあて)に、三尺五寸の小長刀(こなぎなた)を脇に挾み、劣らぬ兵二十餘人前後左右に立、敵の靉(むらがつ)て引(ひか)へたる中へ走り懸り、東西を掃ひ、南北へ追廻し、黒煙を立て切て廻らせ給ふに、寄手大勢也。
 
と云へ共、纔(わづか)の小勢に被切立て、木の葉の風に散が如く、四方の谷へ颯(さつ)とひく。敵引ば、宮藏王堂の大庭に並居(なみゐ)させ給て、大幕(おほまく)打揚(うちあげ)て、最後の御酒宴あり。宮の御鎧に立所(たつところ)の矢七筋、御頬さき二の御うで二箇所つかれさせ給て、血の流るゝ事瀧の如し。然れ共立たる矢をも不抜、流るゝ血をも不拭、敷皮の上に立ながら、大盃を三度傾させ給へば、木寺相摸(こでらのさがみ)四尺三寸の太刀の鋒(きつさき)に、敵の頸をさし貫て、宮の御前に畏り、「戈閃剱戟(くわせんけんげき)をふらす事電光の如く也。磐石巌を飛す事春の雨に相同じ。
 
然りとは云へ共、天帝の身には近づかで、修羅かれが爲に破らる。」と、はやしを揚て舞たる有樣は、漢・楚の鴻門に会せし時、楚の項伯と項荘とが、剱を抜て舞しに、樊噲(はんくわい)庭に立ながら、帷幕をかゝげて項王を睨し勢も、角やと覺る許(ばかり)也。
 
大手の合戰事急也。と覺て、敵御方の時の聲相交りて聞へけるが、げにも其戰に自ら相當る事多かりけりと見へて、村上彦四郎義光(よしてる)鎧に立處の矢十六筋、枯野に残る冬草の、風に臥たる如くに折懸て、宮の御前に参て申けるは、「大手の一の木戸、云甲斐(いふかひ)なく責破られつる間、二の木戸に支て數刻相戰ひ候つる處に、御所中の御酒宴の聲、冷(すさまじ)く聞へ候つるに付て参て候。敵既にかさに取上て、御方(みかた)氣の疲れ候ぬれば、此城にて功を立ん事、今は叶はじと覺へ候。
 
未(いまだ)敵の勢を餘所へ回し候はぬ前(さき)に、一方より打破て、一歩(ひとまど)落て可有御覧と存候。但(ただし)迹(あと)に残り留て戰ふ兵なくば、御所の落させ給ふ者也。と心得て、敵何く迄もつゞきて追懸進(おつかけまゐら)せつと覺候へば、恐ある事にて候へ共、めされて候錦の御鎧直垂と、御物具(おんもののぐ)とを下給て、御諱(おんいみな)の字を犯(をか)して敵を欺き、御命に代り進(まゐら)せ候はん。」と申ければ、宮、「争(いか)でかさる事あるべき、死なば一所にてこそ兎も角もならめ。」と仰られけるを、義光言ばを荒らかにして、「かゝる淺猿(あさまし)き御事(おんこと)や候。
 
漢の高祖■陽(けいやう)に圍れし時、紀信高祖の眞似をして楚を欺かんと乞しをば、高祖是を許し給ひ候はずや。是程に云甲斐なき御所存にて、天下の大事を思食立ける事こそうたてけれ。はや其御物具を脱せ給ひ候へ。」と申て、御鎧の上帯をとき奉れば、宮げにもとや思食けん、御物(おんもの)の具・鎧直垂まで脱替させ給ひて、「我若(もし)生たらば、汝が後生を訪(とぶらふ)べし。
 
共に敵の手にかゝらば、冥途までも同じ岐(ちまた)に伴ふべし。」と被仰て、御涙を流させ給ひながら、勝手の明神の御前を南へ向て落させ給へば、義光は二の木戸の高櫓に上り、遙に見送り奉て、宮の御後影(おんうしろかげ)の幽に隔らせ給ぬるを見て、今はかうと思ひければ、櫓のさまの板を切落して、身をあらはにして、大音聲(だいおんじやう)を揚て名乘けるは、「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁(そんにん)、逆臣の爲に亡され、恨を泉下に報ぜん爲に、只今自害する有樣見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ。」
 
と云侭に、鎧を脱で櫓より下へ投落し、錦の鎧直垂の袴許に、練貫(ねりぬき)の二(ふたつ)小袖を押膚脱(おしはだぬい)で、白く清げなる膚に刀をつき立て、左の脇より右のそば腹まで一文字に掻切て、腸(はらわた)摑で櫓の板になげつけ、太刀を口にくわへて、うつ伏に成てぞ臥たりける。大手・搦手の寄手是を見て、「すはや大塔宮の御自害あるは。我先に御頸(おんくび)を給らん。」
 
とて、四方の圍を解て一所に集る。其間に宮は差違へて、天の河へぞ落させ給ける。南より廻りける吉野の執行が勢五百餘騎、多年の案内者なれば、道を要(よこぎ)りかさに廻りて、打留め奉んと取籠る。村上彦四郎義光が子息兵衛藏人(ひやうゑくらうど)義隆(よしたか)は、父が自害しつる時、共に腹を切んと、二の木戸の櫓の下まで馳来りたりけるを、父大に諌て、「父子の義はさる事なれ共、且(しばら)く生て宮の御先途を見はて進(まゐら)せよ。」
 
と、庭訓を残しければ、力なく且くの命を延て、宮の御供にぞ候ける。落行道の軍、事既に急にして、打死せずば、宮落得させ給はじと覺ければ、義隆只一人蹈留りて、追てかゝる敵の馬の諸膝薙(ない)では切すへ、平頸(ひらくび)切ては刎落させ、九折(つづらをり)なる細道に、五百餘騎の敵を相受て、半時許ぞ支たる。義隆、節、石の如く也。
 
といへ共、其身金鐵ならざれば、敵の取巻て射ける矢に、義隆既に十餘箇所の疵(きず)を被てけり。死ぬるまでも猶敵の手にかゝらじとや思けん、小竹の一村有ける中へ走入て、腹掻切て死にけり。村上父子が敵を防ぎ、討死しける其間に、宮は虎口に死を御遁有て、高野山へぞ落させ給ける。(後略)

吉野神社の南約1㎞、道の脇に立つ宝篋印塔が南朝の忠臣・村上義光の墓である。義光は信濃の武将で、奪われた錦旗を奪い返し、大塔宮護良親王の身代わりとして、吉野落城のさい蔵王堂の仁天門上で自害した故事は有名である。
 
「村上義光」
 
 

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