吉野 葛(くず)のお話
葛の花・・・・葛の根のでんぷんでお菓子を作る
葛菓子と葛きり
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吉野 葛(くず)のお話
葛の呼び名の
<葛の名前の由来>
日本書紀(応神天皇19年)には
「冬十月の戊犬の朔に吉野宮に幸す。
時に国栖人(くずびと)来朝り。
因り醴酒を以て、天皇に献りて、歌して曰さく。…」とあります。
また、万葉集巻10には
「国栖(くにす)らが春菜採むらし司馬の野のしばしば君を思うこのころ」と
詠んだ相聞歌がある。
この国栖(くにす)らというのは国栖人(くずびと)のことを指します。
上古には奈良県吉野郡吉野川上流の住民を国栖(くず)と呼んでおり、
今でもそこには国栖(くず)の地名が残っています。
国栖人というのは大和国家以前の山地に住んでいた人々に与えられた呼び方であったようです。
主に岩穴に住んでいた人々であって、祖先の名は石押分と呼ばれていました。この国栖人というのはいわゆる山人の象徴的な呼称であったと考えられています。
国栖の名は都の人々にもよく知られており、
9月9日の重陽の節句に「吉野の国栖人」が古風の歌舞を奏したといわれています。
国栖人がつる草の根からでん粉を取り、
里に出て売ることがあったので、いつしかその粉に国栖の名が付けられたのではないか、
クズという植物名もそこからきているのではないか、と考えられています。
奈良県の国栖(吉野地方)で、この植物の根から葛粉をつくっていたので、くずの名がつきました。薬草としても重宝されています。
<吉野葛の製法>
葛は豆科の植物で、山野どこにでも生えるつる性の植物です。葉は家畜の飼料となり、茎は葛布や工芸品に、根は葛粉の原料となります。
良質の澱粉を取るためには、寒さ厳しい冬、人がやっと歩ける位の山奥に入り、地中深く生えている根を掘り起こします。その根を繊維状に粉砕して水と混ぜ、根に含まれる澱粉をもみだし、吉野晒という吉野地方独自の製法で精製したものが吉野本葛と呼ばれます。
冬の冷たい空気と水で仕上げる吉野本葛は、美しい白色をしています。1kgの葛根から最終製品としてできあがる葛粉はおよそ100gといわれます。
現在では根を掘る人も、良質の葛根が掘れる山も少なくなってきています。そのため江戸時代では澱粉の主流であった葛粉も、今では高価なものとなってしまいました。
万葉集その三百四(国栖の里)
「浄見原(きよみがはら)神社:国栖奏(くずそう) 入江泰吉 祭りと歳時記 小学館より」
「同上」
「同上 天武天皇を祀る祠」
国栖(くず)の里は奈良県吉野川上流の山奥にあり古代は秘境ともいうべきところでした。
人々は今でも昔ながらの方法で楮の繊維を吉野川の水に晒して手漉きの紙を作ったり、山から切り出した木を製材して生業を立てており、また「昆布」という変わった姓の人が多いことでも知られています。
この地を訪れた谷崎潤一郎は、その著「吉野葛」(岩波文庫)で、
「史実による豊富な題材のうえロケーションが素敵で、渓流、
茅屋(ぼうおく)があり
春の櫻、秋の紅葉、それらを取り取りにして面白い読み物を作れる」と述べています。
日本書紀によると
『 289年応神天皇が吉野に行幸されたとき、国栖人は酒を献上し、歌舞を奏して歓迎した。
その地は京より東南で、山を隔てて吉野川のほとりにある。
峰は高く谷深く道は険しい。
人々は純朴で日頃は木の実を採って食べ、また、蛙を煮て上等の
食物としている 』とあり、
天皇に奉納された歌舞は、手で口を打って音を出しながら歌の拍子をとり
上を向いて笑う独特の所作をするものであったらしく、それは、のちに
「国栖奏」(くずそう)とよばれました。
「 国栖(くにす)らが 春菜摘むらむ 司馬(しま)の野の
しばしば君を 思ふこのころ 」
巻10-1919 作者未詳
( 国栖人たちが 春の若菜を摘むという司馬の野。
その名のように しばしば貴方のことを想うこのごろです )
古代、国栖は「くす」または「くにす」とよばれていたようです。
うら若き乙女は男に一目ぼれしたのでしょうか?
眼(まなこ)を閉じ、うっとりと夢見ているような感じのロマンティックな一首です。
司馬」の野は国栖付近の地と思われますが所在は不明。
「 みよし野の 山のあなたに やどもがも
世のうき時の かくれがにせむ 」
読み人しらず 古今和歌集
( あの遠い吉野の山の なお向こうに宿るところが欲しいものだ。
この世が厭になったら隠れ家にしょうと思うので- 。)
『 吉野は古くから伝統的な「かくれ里」であった。
天武天皇が壬申の乱にいちはやく籠られたのは有名だが、
西行も義経も南朝の後醍醐天皇も、
近くは天誅組の落人に至るまで「世のうき時」に足が向かうのはいつも吉野の山奥であった。
いうまでもなく地理的な理由によるものだろう。
大和へも河内へも伊勢へも近く、南は熊野へ通じる山つづきで、しかも険阻なことこの上もない。
攻めるに難く、守るに易い要害の地であった。 』
大海人皇子(おおあまのみこ)が近江で兄、
天智天皇と決別し吉野の浄見原(きよみがはら)に籠ったとき、
国栖の翁たちは栗やウグイ(鯉科の魚)を持ち寄り、舞を奏して皇子を慰めました。
皇子は大いに喜び、戦い勝利の暁には宮中に招待すると約束します。
壬申の乱ののち、即位して天武天皇となった皇子はその約束を果たし、都に招かれた国栖の翁たちは宮中で舞を奉納し、その後も宮中の大嘗祭と元旦の節会の儀式に毎年奏せられるという栄誉を担いました。
国栖奏は今なお引き継がれて、毎年旧正月の14日(本年は2月16日)に吉野川上流、
天武天皇を祀る「浄見原神社」で奉納されています。
『 舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、歌翁五人が神官に導かれてあらわれる。
桐竹鳳凰の紋を青摺りにした装束は川風になびき、冠、木沓(きぐつ)、
芍(しやく)もここでは特別な気がしない。
淵の上の細い石段をのぼると拝殿の屋形が作られ、その奥の岸壁に高く
天武天皇がまつられ、岩の上に神饌物たる生きたカエルやウグイが
供えられているのだ。
右手に鈴、左手にサカキを持った二人の舞翁がこの岩陰の屋形に舞い始めると、
笛の音、太鼓は岸壁に反響し、単純にして素朴な時間が古代のかなしみと
歓喜をはらんでくる。
「 すずのねに しらきのふえの おとするは『 舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、歌翁五人が神官に導かれてあらわれる。
桐竹鳳凰の紋を青摺りにした装束は川風になびき、冠、木沓(きぐつ)、
芍(しやく)もここでは特別な気がしない。
淵の上の細い石段をのぼると拝殿の屋形が作られ、その奥の岸壁に高く
天武天皇がまつられ、岩の上に神饌物たる生きたカエルやウグイが
供えられているのだ。
右手に鈴、左手にサカキを持った二人の舞翁がこの岩陰の屋形に舞い始めると、
笛の音、太鼓は岸壁に反響し、単純にして素朴な時間が古代のかなしみと
歓喜をはらんでくる。
くずのおきなの まゐるものかは 」
歌翁たちの大らかな歌いぶりとともに舞はいよいよ白熱し笛は冴えわたる 』
(前 登志夫 吉野紀行 角川選書 )
<「国栖奏のこと」 >
古事記日本書紀に書かれていることが、そのまま歴史的事実とは言えませんが、記紀に伝える模様を裏付けるように、縄文弥生式の土器や、そのころの生活状態を推定させる、狩猟の道具がこの付近からも発掘されています。
記紀には「神武天皇がこの辺りへさしかかると、尾のある人が岩を押し分けて出てきたので、おまえは誰かと尋ねると、今天津神の御子が来られると聞いたので、お迎えに参りました、と答えました。これが吉野の国栖の祖である」という記載があり、古い先住者の様子を伝えています。
又、記紀の応神天皇(今から約1600年前の条に、天皇が吉野の宮(宮滝)に来られたとき、国栖の人びとが来て一夜酒をつくり、歌舞を見せたのが、今に伝わる国栖奏の初まりとされています。
さらに、今から1300年ほど昔、天智天皇の跡を継ぐ問題がこじれて戦乱が起りました。世にいう壬申の乱で、天智天皇の弟の大海人皇子は、ここ吉野に兵を挙げ、天智天皇の皇子、大友皇子と対立しました。
戦は約一ケ月で終わり、大海人皇子が勝って天武天皇となりました。
この大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人は皇子に味方して敵の目から皇子をかくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏しました。
これを見た皇子はとても喜ばれて、国栖の翁よ、と呼ばれたので、この舞を翁舞と言うようになり、代々受け継がれて、毎年旧正月14日に天武天皇を祭る、ここ浄見原神社で奉納され、奈良県無形文化財に指定されています。
浄見原神社 国栖奏(くずそう)
応神天皇が吉野を訪れた際に、天皇のために国栖の人々が醴酒(れいしゅ、一夜酒)を献上し、歌舞を奏上してもてなしたという故事にちなんだ伝統行事。毎年旧正月14日に行われます。
早朝から精進潔斎をした筋目といわれる家筋の男性の舞翁2人、笛翁4人、鼓翁1人、歌翁5人が神主に導かれて舞殿に登場します。古式ゆかしく笛翁の奏でる飄々とした調べ、歌翁の合唱、舞翁の振る鈴の音が山深い吉野の谷筋に響きます。素朴ですが凛として、清々しさを感じさせてくれる、古代からの伝承の舞楽が繰り広げられます。奈良県指定の無形民俗文化財。
神主による祝詞奏上。舞殿から神殿に続く石段に置かれた台上には、独特の神饌――山菓(くり)・醴酒(一夜酒)・腹赤の魚(ウグイ)・土毛(根芹)・毛瀰(もみ、赤蛙)――が献上されています。興味深いことに、楽器(鼓、笛、鈴)もいったん神前に供えられ、祝詞奏上が終わってのち、各演奏者が供えた楽器を恭しく押し頂いて着座し演奏します。撮影:2010/2/27 奈良・吉野郡吉野町南国栖
舞翁は榊と鈴を手に「シャリン、シャリン」と振り鳴らし、囃し方の「エンエイ(延栄)」の囃し声とともに舞います。正月から12月まで舞い納めますが、全体的にきわめて簡単な舞です。撮影:2010/2/27 奈良・吉野郡吉野町南国栖
笛翁の2人。他の奏者12名ともに翁筋の家人から選ばれます。桐鳳凰紋狩衣に風折烏帽子を被り笏を持っています。撮影:2010/2/27 奈良・吉野郡吉野町南国栖
浄見原神社は南国栖(くず)の吉野川右岸、天皇淵の切り立った岸壁上に鎮座し、天武天皇を祭神とします。神殿は神明造一間社
浄見原神社 国栖奏(くずそう)
応神天皇が吉野を訪れた際に、天皇のために国栖の人々が醴酒(れいしゅ、一夜酒)を献上し、歌舞を奏上してもてなしたという故事にちなんだ伝統行事。毎年旧正月14日に行われます。
早朝から精進潔斎をした筋目といわれる家筋の男性の舞翁2人、笛翁4人、鼓翁1人、歌翁5人が神主に導かれて舞殿に登場します。古式ゆかしく笛翁の奏でる飄々とした調べ、歌翁の合唱、舞翁の振る鈴の音が山深い吉野の谷筋に響きます。素朴ですが凛として、清々しさを感じさせてくれる、古代からの伝承の舞楽が繰り広げられます。奈良県指定の無形民俗文化財。
神主による祝詞奏上。舞殿から神殿に続く石段に置かれた台上には、独特の神饌――山菓(くり)・醴酒(一夜酒)・腹赤の魚(ウグイ)・土毛(根芹)・毛瀰(もみ、赤蛙)――が献上されています。興味深いことに、楽器(鼓、笛、鈴)もいったん神前に供えられ、祝詞奏上が終わってのち、各演奏者が供えた楽器を恭しく押し頂いて着座し演奏します。撮影:2010/2/27 奈良・吉野郡吉野町南国栖
舞翁は榊と鈴を手に「シャリン、シャリン」と振り鳴らし、囃し方の「エンエイ(延栄)」の囃し声とともに舞います。正月から12月まで舞い納めますが、全体的にきわめて簡単な舞です。撮影:2010/2/27 奈良・吉野郡吉野町南国栖
笛翁の2人。他の奏者12名ともに翁筋の家人から選ばれます。桐鳳凰紋狩衣に風折烏帽子を被り笏を持っています。撮影:2010/2/27 奈良・吉野郡吉野町南国栖
浄見原神社は南国栖(くず)の吉野川右岸、天皇淵の切り立った岸壁上に鎮座し、天武天皇を祭神とします。神殿は神明造一間社
≪能 国栖≫
清見原天皇は大友皇子に追われ、吉野の山中、国栖まで逃げてこられる。
そこへ川船に乗って老夫婦が帰って来て、我家の辺りに星が輝き紫雲のたなびくを見て、高貴な方が来られてると気づく。
侍臣は老人に天皇が来られてる由告げ、何か食事を差し上げるよう頼む。老夫婦は根芹と国栖魚(鮎)を差し上げる。
そしてその残りを賜った老人が、魚を川に放すと不思議に生き返り、天皇の行く末は吉兆だと喜ぶ。
そこへ川船に乗って老夫婦が帰って来て、我家の辺りに星が輝き紫雲のたなびくを見て、高貴な方が来られてると気づく。
侍臣は老人に天皇が来られてる由告げ、何か食事を差し上げるよう頼む。老夫婦は根芹と国栖魚(鮎)を差し上げる。
そしてその残りを賜った老人が、魚を川に放すと不思議に生き返り、天皇の行く末は吉兆だと喜ぶ。
- そこへ追い手が迫って来てしまう。
すると夫婦は干してある船の中に天皇を隠し、
追い手をみごと追い払った。
天皇は夫婦に深く感謝し、また自分の身の 拙さを嘆かれ、
皆涙を流した。
- やがて夜も更け、妙なる音楽が聞こえ天女が現れ舞を舞い、
つづいて蔵王権現が現れ、激しく威勢をあらわし、
天皇を守護する約束をし、御代を祝福する。
<谷崎潤一郎「吉野葛」>
奈良の吉野といえば谷崎潤一郎の「吉野葛」が自然に思い浮かびます
昔からあの地方、十津川、北山、川上の荘あたりでは、今も土民に依って「南朝様」或は「自天王様」と呼ばれている南帝の後裔に関する伝説がある。
この自天王、 - 後亀山帝の玄孫に当らせられる北山宮と云うお方が実際におわしましたことは専門の歴史家も認めるところで、決して単なる伝説ではない。……」。