神話・・・・・・・・「古事記伝」本居宣長公著
 
日本神話を日本人が語らなくなれば、自然は人々にその恐ろしさを教えるために、古来大災害を起こして来た・・・
 
だから尊きを尊み、 可畏(かしこ)きを畏(かしこ)みているべきである。
 
自然の脅威を忘れてはならない 
 
自然にはひれ伏すべきである(宣長)
 
 
神は『人智の及ばない、そして畏怖すべき存在、尋常では無いものに神を見た』
 
世の常ならずすぐれたところのあり、
 
可畏(かしこ)きものを「かみ」という。
 
 
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神話・・・古事記伝(宣長)
 
本居宣長の言霊
 
「神」とは
 
「かみ」とは古典などにある天地の神々をはじめ、
 
それを祭る社(やしろ)にある御霊(みたま)をもいい、
 
人はもとより、鳥、獣、木草の類、海、山など、その外何でも、
 
世の常ならずすぐれたところのあり、
 
可畏(かしこ)きものを「かみ」という。
 
「かみ」はこのように種々あり、
 
貴(とうと)きも、賎(あや)しきも、強きも弱きもある。
 
善きも悪しきもあり、心も行いもその様々に従い、とりどりにある。
 
まして、善きも悪しきも、たいへん尊くすぐれた神々の身の上は、
 
とてもとても妙(たえ)にして、あやしく奇すしい。
 
人の小さい認識で、その理(ことわり)など、
 
智恵の一片も測りしることはできない。
 
その尊きを尊み、 可畏(かしこ)きを畏(かしこ)みているべきである
 
人智から造り出された、不自然な「もののけ」により
 
自然の神々は毒され
 
やがて大きな災害の原因となると、
 
「神学者本居宣長」は予言した。
 
 
 
                           敷島の大和心を人問はば、
 
                              朝日に匂ふ山桜花
 
 神とは、社に祀られている神も、山も森も林も滝も海も
 
そして・・人も、鳥獣も、一草一木も
 
天然自然の現象、全て神であると信じてきた。
 
科学や医学や原子力を神とは思わなかった。

あらゆる自然なものを
 
『人智の及ばない、そして畏怖すべき存在、尋常では無いものに神を見た』と言うこと
 
花も木も草も、あらゆる生物、天然現象、
 
どれ一つとっても人間の創生になるものは無い、
 
人智の及ばない力で生まれ出たもの、その一つ一つが、所謂神なのである。

神社のご神体が何の変哲も無い石ころであったりする事がままあるようであるが、古代より日本人はその石に霊力を見ることによって神として崇めてきた。
風が吹けば、神の意思と受け止め、日が照ってても神の恵みと感謝した。

全ての事象をありのままに受け入れながら、良い時は良いなりに、悪い時は悪いなりに、神にお願いし祈りを捧げて、神と共存してきたという事らしい。
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古事記伝・・・・本居宣長
『古事記伝』は、宣長に時代に存在していた『古事記』の写本を相互に校合し、諸写本の異同を厳密に校訂した上で本文を構築する書誌学的手法により執筆されている。さらに古語を附し、その後に詳細な註釈を加えるという構成になっている(こうした書誌学的手法は宣長のみならず江戸期の学芸文化から現在の国文学・歴史学に到るまで行われており、『古事記』に関してはのちの倉野憲司『古事記全註釈』にも引き継がれている)。『記伝』全44巻のうち、巻一は「直毘霊」(ナホビノミタマ)を含む総論となっており、巻二では序文の注釈や神統譜、巻三から巻四十四までは本文の註釈に分かれている。
宣長の『古事記伝』は、近世における古事記研究の頂点をなし、近代的な意味での実証主義的かつ文献学的な研究として評価されている。国語学上の定説となっている上代特殊仮名遣も、宣長によって発見されたと評価されている。宣長は『古事記』の註釈をする中で古代人の生き方考え方の中に連綿と流れる精神性、即ち『道』の存在に気付き、この『道』を指し示すことにより日本の神代を尊ぶ国学として確立させた。
宣長の提唱する道とは古道のことである。宣長研究の第一人者村岡典嗣1911年(明治44年)に上梓した『本居宣長』(東京警醒社)の中で次のように述べている。
古道とは何ぞ。そは天地万国を通じてただ一すぢなるまことの道で、我が国にのみ正しく伝はつて、外国には既に、その伝来を失つてゐる。道といふといへども、そは、人間が究理作為の結果になつた道理道徳の類でなく、ただこれ、我が国の古典に伝へられた、神代の事実である。万国に勝った御国にのみ伝はつた古への言伝へ、これやがて古道の根拠である。而してこは、古事記、日本紀のニ書、殊に古事記に正しく伝はつた。日本紀に比して、古事記の重んずべき理は、そが古語の純粋を以て、「言ひ伝へ」をさながらに記して居るからである。而して、彼がかく考へたのは、已に、注意した如く、一方に彼が語学上言霊説の之を荷へるものがあつたので、即ち、彼がさる難者の「言ひ伝へ」の信ずべからざるを言つたのに答へた文に、言ひ伝へと文字伝へと各特質があつて、必ずしも言ひ伝へが、文字伝へに比して誤多い理由はない。殊に、「文字なき世は、文字なき世の心なる故に、「言ひ伝へとても、文字ある世の言ひ伝へとは大いに異にして、浮きたることさらになし。」となし、殊に「皇国は言霊の助くる国、言霊の幸はふ国と、古語にもいひて、実に言語の妙なること、万国に勝れたるをや。」といひ、更に進んで、「抑(そもそも)、意と事と言とは、皆相称へる物にして、上つ代は意も事も言も上つ代」となした思想に由来してゐるのである。(而してまた一つには、この點からして、古語を明らめて古伝説を説き明らむることによりて、やがて古道の研究に入るといふ、彼の学問の結論は生じたのである。)

 
 
 
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<本居宣長の言霊>
 
 父母は我が家の神、わが神とこころつくしていつけ人の子
  
                     ー 本居宣長・ 玉鉾百首 ー


我が家の今日あるは、その初め、父母が私どもを生んでくれたお陰による。
その意味で実際の人生に於いては、自分を生んでくれた父母を、もっとも身近な守り神として大切にすべきである。
更にその祖父、高祖父、曽祖父と遡っていけば、遠い自分の祖先をもっとも身近な神の一つとして、
真心を尽くして大切にお仕え申すべきである。
遠い神を大切にするのはよいが、現実の最も身近な父母を我が家の守り神として大切にすることが、
神まつりの第一歩であると教えたものである。

本居 宣長(もとおり のりなが、1730年6月21日享保15年5月7日) - 1801年11月5日享和元年9月29日))は、江戸時代日本国学者・文献学者・医師である。名は栄貞。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。は芝蘭、瞬庵、春庵(しゅんあん)、自宅の鈴屋にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。当時、既に解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し、『古事記伝』を著した
 
本居宣長は1730年6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の
 
木綿商である小津家の次男として生まれた。
 
幼名は富之助。少年時代から習字を習い、漢籍も学んだ。
 
そして、執筆もするようになった。寛延元年(1744年)、
 
16歳の時伊勢山田の今井田家の養子となり紙商売を始める。
 
しかし3年後に離縁して松坂に帰った。
 
延享2年(1745年)商売の勉強の為に江戸に赴いた。
 
延享3年、江戸から郷里に帰る。
 
当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、
 
「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして
 
「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆した。
 
この時期の見聞を元に、自分用の資料として『都考抜書(とこうばっしょ)』を
 
延享3年(1746年)より起筆(宝暦元年(1751年)頃まで書き継がれた)した。
 
兄が死んだ後、小津家を継ぐ。宝暦2年、22歳になったとき、
 
医学の修行のため京都へ遊学した。京では医学を堀元厚武川幸順に、
 
儒学を堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学んだ。
 
景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも興味を持っており、
 
また契沖の支援者でもあった。
 
同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻した。
 
この頃から日本固有の古典学に身を入れるようになり、
 
景山の影響もあって荻生徂徠契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。
 
その京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていく。
 
宝暦7年(1758年)京都から松坂に帰った宣長は医師を開業し、
 
そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。
 
27歳の時、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、
 
賀茂真淵の書に出会って国学の研究に入ることになる。
 
その後宣長は真淵に手紙で教えを乞うようになった。
 
宝暦13年(1763年5月25日、宣長は、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見した。
 
そして、かねてから志していた古事記の注釈について、指導を願うのである。
 
その時に入門を希望し、その年の終わり頃に入門を許可され、
 
翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。
 
真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めた方が良いという旨の教授をした。
 
以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進むことを決意した。
 
この真淵との出会いは、宣長の図随筆集『玉勝間』に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。
 
この2つの文章から再構成された宣長と真淵との出会いは、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載された。一時は紀伊藩に仕えたが生涯市井の学者として過ごした。
 
門人も数多く、特に、天明年間 (1781~1789) の末頃から増加する。天明8年 (1788) 末のまでの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた。伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。
 
60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、また、各地にいる門人を励ましたりもする良い機会となった。さらに死後、弟子を自認し、その思想を継承した平田篤胤らがいる。
 
遺言に自分の墓のデザインを示した。昭和34年(1959年)に松阪市内を見渡す小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、さらに平成11年(1999年)には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。
 
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