『胆識』とは何か?


知識は、ある事項を知っている事

見識は、物事の本質を見通す優れた判断力の事

胆識は、知識や見識を元として実践行動する事

「知識・見識・胆識」と言われる。

知識の人とは単なる物知りに過ぎない。それだけでは戯ごとを楽しめても、機を活かし、変に応じるには全く役立たない。
 そこで「見識」がでてくる。自ら得た知識も、それに基づいた目標、あるいは理想を持つことで、反省や批判が起こり、物事を判断する力が身についてくる。それが「見識」である。
 だが、それだけでもまだ不十分なのだ。当然、何事も行動に移さなければ、そこからは何も生まれない。ましてや、変化に応じるエネルギーは生まれない。そこで出てくるのが「胆識」である。

 この胆識をどう身につけるか、それがポイントである。

 「仕事はもちろんそうだが、何か行動を起こそうとすると、必ずそれに対する抵抗や障害が生じてくる」。人が、その抵抗・障害を排除し、乗り越えようとしても判断力、つまり見識だけではどうにもならない。そこで次のようにも言われる。

 「男は度胸という言葉があるが、そうした抵抗や障害を乗り越えるためには、単なる見識ではなく、腹のすわった胆力ある見識が必要になる。それが胆識と言われるものです」。

 つまり、見識とは物事を判断する力であり、胆識とはそれを実行する力、と表現しても良いのだろう。

しかし、「ではどうやって、その胆識を養うのか」の疑問が残る。それを問うと、また次の言葉が返ってきた。

 「場数を踏んでトレーニングを積むことです。失敗を恐れず、勇気を持ってターゲットに向かっていく。こうして一所懸命に努力するうちに、それが自然に身についてきます」。

 確かに世の中には、腹のすわった人がいるものである。その方々に共通しているのは、何度も何度も抵抗・障害にぶつかり、それを乗り越え、ものごとを成就させていることだ。身に降りかかった抵抗・障害を乗り越える過程で、自然に胆識を身に付けたのだろう。

 その意味で抵抗・障害こそ、胆識を生じさせるエネルギー源なのだ。先行きの読めない、不透明な時代には、予測し難い抵抗・障害が渦巻く。だがそれが大きければ大きいほど、身につける胆識も大きくなる。ものは考えようである。



知識から見識を高め、見識が備われば胆を据えて決断実行し、胆識を養う。

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