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後醍醐天皇の御製・・「花に寝て よしや吉野の吉水の 枕の下(もと)に 石(いわ)はしる音」 


「学習院大学」南朝の歴史を訪ねて!

本日は、「学習院大学」の生徒の皆さん、ようこそ、この山深き、吉野山におこし下さいました。先ほどから宮司は、皆様の神社での、拝み方が素晴らしいので感心していました。さすがに礼儀正しく、靴の脱ぎ方、礼の仕方が大変お見事であらせられ、感動いたしました。最近は、手も洗わず、本殿に拝礼もしない人が沢山いまして、世の中を嘆いていましたが、学習院大学の皆さんの清らかで凛とした聡明な姿を拝見し、ああ、こんなに素晴らしい若者がいれば日本は、まだまだ、大丈夫だと安心しました。この神社の宮司の佐藤 素心と申します。私のつたない話を聞いていただきますこと、誠に嬉しゅうございます。この神社は、義経や静御前が来て、ここで別れを惜しみ静かが、義経の前で、舞をして泣きながら扇子を落としてたと言う場所です。また、豊臣秀吉が花見をした本陣でもありますが、皆さんには、太平記の南北朝に焦点を合わせてお話します。「ここにても雲井の桜 咲きにけり ただかりそめの 宿と思へど」と第96代の後醍醐帝は、京都の花山院から、吉野の賀名生へ行幸されましたが、天下に号令されるには、あまりの僻地であらせられ、高野と吉野に勅使をお遣わされた。この吉水院の宗信という当時の住職が、大変な勤王家でありまして、直ちに宗徒の僧衆300余人を引き連れて、帝を吉野にお迎え奉ったのです。まず、この吉水院を、仮の皇居とされました、皆さんは、東京の皇居ののことを考えられるでしょうが、それに比べますとあまりにも,わび住いで、お気の毒な館でございました。南朝は、ここ吉野山から始まりました。京都の御所であれば、紫辰殿の花々や清涼殿の朧月を眺められ「一天万乗の君」であられる後醍醐帝も、ここ吉野では、軒を打つ風にさえ哀れを感じられたことでしょう。延元二年には、後醍醐帝は、諸国に号令され再び都に帰る日を夢見られました。しかし、風邪をこじらされ延元四年「身はたとえ南山にうずむるとも、魂魄は常に北闕を望まん」という言葉を最後に崩御されました。さぞかし無念でございましたでしょう。どうぞ皆さん文学的な、歴史観でこの宝物殿をご見学下さい。日本は、万葉集や源氏物語、太平記のように素晴らしい文学書があります。しかし、最近「楠正成」のことを「楠まさなり」という子供達も増加しました。日本は素晴らしい国です、「武士道」と言う根幹にある倫理観や「和を以って貴しとなす」穏やかな民族性を誇りにしていただきたいのです。
最近の世界情勢は、混沌殺伐とした情勢下に有り、これからの世界を救えるのは、日本のように、八百万の神々を抱擁できる民俗なのではないでしょうか。どうか、皆さんの素晴らしい品格で世界平和を築いて下さい。胸を張り、日本の文化の素晴らしさを世界に広めて下さい。