「南朝の哀史」を愛して欲しい・・・・「歌書よりも軍書に哀し吉野山」
本日は、「西部歴史研究会」の沢山の皆さん、吉水の書院に入れないぐらい、来て頂きまして、感謝します。「さて皆さん、雨にぬれた紫陽花、綺麗ですね、皆さんの中で、先ほど、境内の玉砂利の上にいた・・一匹のカタツムリを、人に踏まれては可愛そうだ・・・と手に乗せて紫陽花の葉に、移してあげた人がおられますね・・・宮司は、その姿を見て感動しましたよ。・・・何と皆様のお仲間には、人格者がおられると思いました」・・・この吉水神社に入られて、門の入り口に、楠の切り板に書いてある「天勾践を空しうするなかれ、時にはんれい、無きにしもあらず」と書いてあるのを気付きの方がおられました。それでまた、ビックリしました。あの、言葉は、児島高徳が、備中美作の桜の木に彫ったものを、南朝の皇居ですから、後醍醐帝の心をお慰めしたいと再現しております。普通の人は、あの文字を見ても何の感動もしませんが、さすがに皆さんは感動なさるんですね。すごいことです・・・身体も心も感動する人は、若々しいですね」それでは、ぼちぼち前置きをやめて本論に入りましょうね「そこの人、足はどうか・・崩してください・・・」(笑)「そこの人、顔を崩してください」・・・「えつ?・・・・最初から崩れているって・・うふふ・・」(笑)あまりにも皆さんが、色んなことに感動して下さるので、調子に乗り時間オ-バ-になりそうなので途中で宮司を止めてくださいね。「歴史を学ぶ人々は、先が読める」と昔からよく言われています。皆さんは、先が読める人ですから、私が今から言いたい先が読めるだろうと思いますが・・中国や韓国から歴史教科書がどうのこうのごちゃごちゃ言うていますが、そのような内政干渉など無視するか、中国や韓国が嫌がる内容を子孫に教えてください(笑)さあこれから、ハンカチを出しておいてください(笑)・・・泣けますから。「楠正成の子・・正行(まさつら)は、父の無念をはらすため・・わずかな兵を連れて、ここ吉野の吉水の「後醍醐天皇の玉座の間」の前で額ずき「只今より、足利と戦います、敵は何倍も多くおそらく再びこの地を踏めないかもしれませんが・・行きます。涙を流し・・・帝の無念をしのびながら・・・・・肩にはらはら舞う桜の花びらを受けて出て行きました。・・・後醍醐帝の陵(塔之尾陵)を礼拝し如意輪寺の扉に、矢じりで「帰らじと かねて思えば 梓弓 なき数に入る名をぞとどめん」と辞世の歌を書き記した。四条畷で壮絶な戦死をとげました。戦後の教育は、絶対にこのような話は、子供にしませんタブ-でしょうね。だから・・最近の高校生が・・「おい、くすのきまさなりって誰や?」・・・悲しい限りです。ですから,歴史を学んでいないから・・親を粗末にするのです。自分が何処から生まれ・・こんなことをすれば先祖に申し訳がたたないと考えなければいかんです。今日の最後になりますが「三木一草」について話しますと南朝の忠臣「楠木正成、名和長年、結城親光」を三木と言います,「千種忠顕」を一草と称しました
1336年南北朝対立の中、足利の裏切りで女装された後醍醐天皇は京都の花山院を出られ大和(奈良)
の賀名生へ行幸された。約100キロを36時間もかけて吉野まで来られたのです。真っ先に天皇のもとに駆け参じたのが、当院のそのときの住職、「吉水宗信」でした。この気骨のある住職が吉野に南朝を開いたのです。まだまだ、話したいのですが、後醍醐天皇の子・・護良親王や宗良親王の秘話はまたの機会にお話しましょう。・・いいですか、子供達は試験試験、偏差値偏差値で試験に出ないことは一切学んでいません・・だから、世間出でても応用ができません、一つつまずいたらド壷にはまり抜け出せず・・・自殺するか親を殺すか、先生を殴るかしか手が無いのです・・・どうか、歴史を研究される皆さんが
正しい方向へ導いてやってください・・学校の先生はカリキュラムや日教祖の顔色ばかり見ていますので勇気を持ち堂々と信念で教える先生は皆無です。ですから、おじいちゃんおばあちゃんがしっかり教えましょう。第二次世界大戦は、侵略戦争ではなく四面楚歌に島国がされ、世界から村八分にされて耐えて耐えて・・それでも貧しさに耐えて・・・ついに無慈悲なアメリカの策略で暴発させられたんだと、胸を張り堂々としておけばいい・・中国や韓国に謝る必要も無いと教えてください。先ほどから添乗員さんが時計を二度見られたので話はつきませんが今日はここまでといたします。