■スフィンクスの問い

 

今回はこのブログでの一番の暗部、自分とじっとりねっとりがっつり向き合って地獄を見たお話です。最初にお断りを入れます。これはある女が付け焼刃で得た知識をもとに、アイデンティティを理論立てて自分なりに組み上げようとし、一応なんとか形にした話ですが、このやり方が万人に向いているとは全く思っていません。ここまで読んでいただいてお分かりの通り、私はいろいろこねくり回す人間ですし、卒業のかかった狂気のプレッシャー期間だからこそ実行できたことでもあります。あとなんというか運?たまたま?ともつかぬ要素もあります。それでも公開するのは、一ケースとして何等かお役に立つ部分があればという思いからです。非・こねくり派の皆様は、こんなやべぇ人間もいるんだ~と、レアなサンプルを観察する気持ちでお付き合いいただければ幸いです。

 

なお、ここからは当時書いた卒業論文を直貼りします。途中まで普通に書いていたんですが、思い出しのために論文を見返したらあまりにそちらが差し迫っていたので、そのままお届けしたくなり。文体変わりますがご容赦ください!

 

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先行研究を進めていくうちに、徐々に「夢の卵的構造」の仮説が出来上がっていった。また、「相互作用型の夢」を追うことで、持続的幸福度が上がる可能性も示されていった。これは、夢を追うことには意義があることを示す結果であり、その発見自体は、喜ばしいものであったが、次第に筆者は、暗澹たる気持ちに包まれていった。なぜなら、ポジティブな状態であるためのキーとなる「自分らしさ」や、「相互作用型の夢」の前に立ちはだかる、筆者自身の「アイデンティティ」が何であるかについて、全く見当がつかなかったからである。

 

この時点で、自分の「得意なこと」については、いくつか思い当たるものがあった。しかしそれらを「自分らしさ」と仮置きしても、しっくりと来ることはなかった。そこで、自らの持つ価値観を洗い出し、重要と思われる価値観を起点として、アイデンティティの深掘りを進めることにした。

 

 

作業を通じ、フックになる価値観として見出されたものは、「自分が正しいと思う信念を貫きたい」という価値観と、「ヒーロー的な役割を持ちたい」という価値観であった。それでもまだ、「自分らしさ」として、しっくりと感じられないため、更にヒーロー像の深掘りを行った。するとそれは、「命を救いたい(医者)」という像でもなく、「悪を懲らしめたい(警察)」という像でもなく、「恵まれない人々を助けたい(慈善団体)」という像でもないことが分かった。

筆者がなりたいと感じるヒーロー像は、「人の心の中にある“さもしさ”(またはそれを生み出す仕組み)と戦い、人々の心を明るく、強くする」という、マインドへの影響力を持つ像であった。

 

自分の持つヒーロー像を分解し、詳細を掴んだ瞬間は爽快であった。しかし次の瞬間、恐ろしさが押し寄せてきた。

ぼんやりと想像していた頃のヒーロー像は、自分からはるか遠くにいる、「いつか成れるかもしれないもの」だった。しかし詳細を紐解いたことで、それは「今現在の自分でも成ることができる、現実的なヒーロー像」に変化した。つまり、今この瞬間からでも、ヒーローに成れる可能性が発生した。その気付きにより、それなりに頑張ってきたと思っていた自分が、紐解いたヒーロー像の役割を、今までろくに実行できていなかったことに、愕然としたのである。また、今さらながら、自身が生きている現実こそが、戦うべき場所であることに気付き、その険しさに慄いた。

しかし、とにかく、翌週より、この2つの価値観を意識しつつ、現実の職務に当たってみることにした。

 

 

1週間、価値観を重要視しながら仕事を続けた結果、見出されたものは、やりがいではなく、苦しみであった。なぜなら、信念を貫き、人のさもしさと真正面から向き合うという行為は、当然ながら周囲との軋轢を生むからである。部下ならまだしも、自分よりも立場の上の方々に対し、様々なアプローチを取りながら、価値観に反さない行動をとり、説得を試み続けることは、途方もない時間と労力が、必要なように思われた。その時間と労力のことを考えるだけで、気持ちが萎んでいった。

 

 

こうして「自分らしく」生きてみた結果、見えてきたものは、やりがいを感じる前に自分が疲弊してしまうため、実行はできても、幸福にはなれないという、矛盾した未来であった。現実の壁の前に立ち止まり、自分の足場になるはずの価値観が崩れ落ちていくのを感じた筆者は、混乱し、絶望した。それは、「私は信念のために、永遠に痛みを感じながら進むしかないのか」「それともこれが真の自分らしさではないとしたら、そんなものが本当に存在するのか」「実は私という人間はからっぽなのではないか」「私は真の自分らしさが見つからないまま、永遠に幸福になれず生きていくしかないのか」という恐怖だった。

筆者はこれらの絶望に、がっちりと絡めとられた。この時点が、研究の期間における、一連の変遷の、感情的などん底であった。

 

 

その闇を十分に味わった後、「人のために、正しいと信ずるものを貫く」ことが、自らを幸せにしないのであれば、いっそのこと、もう一度、自分のワクワクすることや、楽しいと思うことに目を向けてみようかという、意識の転換が起こった。ワクワクすること、楽しいこと、好きなことは、就活中も、転職に悩む期間も、考えてきた事柄ではあったが、その時は的が定まらずにいた。

 

ひとしきりの絶望の後、改めてそこに目を向けると、ヒーロー像を深掘りしたことが功を奏したのか、ふと「そういえば私は、人を良い方向に向けて、焚きつけるのが好きだったな」という記憶が降りてきた。それは例えば、ギターを買おうか迷っている人の背中を押すことだったり、相手との関係を悩む人に、自分の意見をしっかり伝えるように励ますことだったりする。この降りてきたイメージを、じっくりと眺めるうちに、それはしっくり感を伴って、筆者の中に定着した。「人を良い方向に向けて焚きつける」ことは、これまで整理してきた様々な価値観と相反することなく、自分も楽しみながら、人の役に立てる行為であるように思えた。その行為をしている自分の姿は、現在の自分の延長線上に描くことができ、過剰なプレッシャーを伴わず、想像することができた。この行為を考えるにつれ、「抜けきった」という感覚が強くなっていった。この感覚を持って、筆者のアイデンティティは、一旦形成されたと考えている。

 

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はい、コピペはここまでです。

いや~~~~、今読んでも生々しい記憶が蘇ります。「ちょっと大げさに書きすぎなんじゃないの?」と思われる方も多いかもですが、当時の私としてはうそ偽りなく絶望していました(私はしょっちゅう絶望するような人間ではないです、念のため)。

ここまで大げさに見える反応になってしまったのは、この「信念を貫きたい」「ヒーローになりたい」という思いは、子どものころからずっと私と共にあった、いわば私が前に進むための杖みたいなものだったからです。ず~~っとず~~っと私を支えてきてくれたはずのものが、もう私を未来には連れて行ってくれない(というか、私が真にそれらを扱えない)と気付いた時の気持ちは、誇張ではなく打ちのめされるものでした。

 

 

■サウナで見た光

 

そして、その後の心境の転換が起こった瞬間もよく覚えています。あれは日中は仕事、夜は論文のあまりに過酷な日々に頭が朦朧とし、回復のため向かったサウナでの出来事でした。

朦朧としながらサウナに入り、水風呂につかり(この間も論文は決して頭から離れません)、へたりこんだベンチで、ふと過去のあるシーンが思い起こされたのです。

 

それは合コンで、初めて会った男の子が「おれギターやりたいんだよね」というので、「めっちゃいいじゃん!買っちゃおうよ!すぐ始めちゃおうよ!!」と焚きつけに焚きつけ、翌日「今日ギター買っちゃったw」と連絡をもらったという、別になんてことない一連の出来事でした。結局その人には二度と会うことはなかったのですが、「人を焚きつけて行動を起こさせた」ということになぜか私は不思議な充足感を覚えて、その嬉しさが妙に記憶に残っていたのです。

そんな記憶が疲れとサウナで朦朧とした頭の中に、急にサンッと差し込んできました。その光を検知した脳みそはのろのろと反応を示し、記憶を手にとりじっと眺め始めました。そして次第に「あ、これいけるかも?win-winってこういうこと?????」と頭が回転し出し、心臓が徐々に早くなっていきました。

 

そのまま静かにベンチに座り、しかし頭はもう一度回転させつつ、新たなこの可能性をおっかなびっくり試し続けた後、「これかも…」と、心の中でピースがはまった感じがしたのです。それは静かな、でも自分にとっては感動的な出来事で、一人ベンチで動きもせず、そのまま涙がこぼれてきました(誰もいなくてよかった)。それは感動とか興奮とかっていうより、「私はからっぽじゃなかった…!」という安堵の涙だった気がします。

 

こうして超なんやかんやの果てに、なんとか自己確立の夢を実現させたのです。研究と同時に自分に向き合い始めてから、約5カ月が経過していました。

 

(だんだんと収束に向かいつつ、もう少しだけ続くんじゃ)