自宅にあった本を就寝前に読む。
あとがきにあるように、内容は簡単なものであるが
言い回しが独特で難しかったため読書嫌いには向かないかもしれない。


※以下ウィキィペディア参照
この講演が行われた当時のドイツは第一次世界大戦の末期で、戦況は悪化する一方であった。
そんな状況下で学生たちは、かつての神や哲学のような、あらゆる意味への問いに答えうる価値観を
授けてくれる超然とした存在を欲しており、学問の中に全能的存在を、
教師の中に指導者の姿を求めるような期待感が生まれつつあった。

学生らのそのような期待感を察知し、ヴェーバーは峻厳さを貫き、次のように語る。
確かに近代において自然科学が発達するなど主知的合理化が行われ、
高度化した技術によって事物が予測可能となっている("脱呪術化"・"魔術からの解放")ものの、
それらにともなう不可避の帰結として、今や学問は個々の領域において専門分化の過程にあり("神々の闘争")、
「真なる存在への道」という理想は失ってしまっており、もはや生の意味を学問に求めることなどできはしない、
学問は価値を示すことはできない、究極的には学問をする意味など無いのだ、と述べる。

そして、彼は学問と政策の峻別を説き、教師は教室における講義の中で学生に自己の主張を説き、
強制してはならないと述べる。つまりこれは価値判断の回避("価値自由")を説いているのである。

さらに、体験を得ようとする為に結社の類を作ろうとする、
学生を初めとした若者達の動きに対し、そのような行為が結局は小さな狂信的集団に陥ると警告している。

結論としては、それでも敢えて学問に意義を見出そうとするならば、
それは個々人の「自己の立場の明確化」の助けになることであるとし、
前段に述べられているような宿命(みずからが主体であることに耐えるという宿命)を受け入れられないような者は、
信仰(キリスト教)へと戻り、そして、日々携わる職業、人間関係における要求に従えば良い、としている。

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