「見て見ぬふりをする」型の身のこなし | 知財業界で仕事スル

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知財業界の片隅で特許事務所経営を担当する弁理士のブログ。

最近は、仕事に直結することをあまり書かなくなってしまいました。

本人は、関連していると思って書いている場合がほとんどなんですが…

「見て見ぬふりをする」という表現がある。意味は、「実際に見ても見なかったように振る舞うこと。知らんぷり。また,とがめないで見のがすこと」(Weblioによる)。これを、目以外の人間の外界とのインターフェースでも考えてみるとなかなか面白い。「聞いて、聞いていないふりをする」「臭って、臭っていないふりをする」「触れて、触れていないふりをする」等々。

口に関して考えると、「食べて、食べていないふりをする」という表現もありえるが、「言って、言っていないふりをする」というのもいける。


現在、日本に出張中で、今回は大阪→東京→ジャカルタと周る約2週間の旅。その中間地点の週末となった昨日は、成人している方の3名の子供のうちの一番下(娘、28歳)と一緒に、私の京都の実家に行ってきた。私は大阪から、娘は東京から。

私は長男だが極道者で跡をとらないので、実家には80歳を共に超えた両親と妹一家とが一緒に住んでいる。ここでは詳細は省くが、そのネジレに起因したと思われる面倒が、我々が実家を訪れる前日にあったようだ。「ようだ」と書いたのは、私は母親から電話で間接的に聞いただけだから。

母親は、私(息子)と娘(孫)とにそれぞれ一昨日の夜に電話をしてきて、昨日の予定のキャンセルを伝えてきた。その際、母親は、私には〝真実″を泣きながら説明する一方で、娘には「急な用事ができたから、キャンセルする」と説明した。孫娘は28歳でも、私の母親にとってはいつまでも「かわいい孫娘」なのだ…

最終的にはそのキャンセルはキャンセルされたのだが、母親は私への電話で、娘には「おばあちゃんに急用ができて来てもらえなくなった」と説明してあるので、ほんとうのことは言わないようにと言った。もちろん私は、それに同意して電話を切った。

しかし、ものごとはそうは単純に終わらないし、終わらせてはいけない。母親との電話を終えた私はすぐに娘に電話をした。そして、〝真実″を伝えた。娘は「どうせそんなことだろうと思っていた」と応えた。

そして、私と娘とが私の実家を訪問した昨日は、私も娘も「聞いていないふり」をして過ごした。まさしく「見て見ぬふりをする」の聴覚版だ。聞いたけれど、聞いていないふりをして、時間は平穏のうちに淀みなく流れ、夕方、我々は実家を辞して東京へ移動した。


「見て見ぬふりをする」型の人間心理はなかなか複雑である。母親の態度は「言って、言っていないふりをする」状態であったが、おそらく彼女はそれを2通りに使っていた。

ひとつは、同居している私の妹に対して。母親は孫娘だけでなく私にも〝真実″は知らせていないふりをして過ごした。これは、普通に考え付く「見て見ぬふりをする」型の身のこなしだ。

もうひとつの「言って、言っていないふりをする」は、私の娘に対して。母親は、私の娘には〝真実″を話さなかった。その代わりに、「急な用事ができたから」と説明してごまかした。しかし、人間(特に、私の母親のようなややこしくヒネるタイプの人間)の「見て見ぬふりをする」型の身のこなしは、実はもう一段複雑になっている。ここに、ひとつ目とは似て非なる二つ目の「言って、言っていないふりをする」が存在する。

私の母親は、私が娘に〝真実″を話すであろうことは最初から織り込み済みで、娘に対して「急な用事ができたから」と説明したのだ。

言って、言っていないふりをする。母親は孫娘には〝真実″を語らず、嘘でごまかしたのだけれど、実は私経由で孫娘にも〝真実″が伝わることを前提にそうしたものと考えられる。直接には「急な用事ができたから」と説明し、〝真実″は伏せた。そうすることで、娘には美しくない〝真実“は言っていないことになっている。しかし、母親にとっては、私経由で孫娘に〝真実″が伝わることは織り込み済みなので、直接には言ってはいないのだけれども、実質的には言ったのである。これが二つ目の「言って、言わないふりをする」。

なぜ母親は孫娘には〝真実″を語らなかったのか?私経由で伝わることは重々承知の上で、孫娘には「急な用事ができたから」と嘘の説明をしたのか?理由は、それが孫娘に対する正しいソシアルマナーだからだ。私の母親は、私の娘を〝孫娘″として正しく扱ったことになる。

ああ、ややこしい…

ややこしいけれども、このややこしさを実践しなければ、家族内の人間関係がギクシャクして、違う意味のややこしいことになる。「見て見ぬふりをする」型の身のこなしは、そのギクシャクを回避するための必要悪だ。娘は〝真実″を知っているのだが、知っていないふりをして私の実家での一日を終え、そこに関与したファミリーメンバーすべてにその日は平穏に過ぎていった。