自分に想像力があるとは思わないけど
妄想力という言葉があるとするなら、その力はずば抜けているんだろうなとは いつも思う。物心着いた頃からずっと、それは今でも 暇な時は、そうねぇ、差し当たって戦争を私がおさめて世界を救うし、禁断の恋愛とかもするし、背中に羽も生えて宇宙を駆け回り
それからそれから…
と
そんな私の息子が、まさか妄想力が無いなんて思いもしなかった。
というのも、今回夏休みの宿題をするにあたって
一部の問題が どんなに説明しても解けなかったのだ。
その問題というのも、特に難しい事もなく
例えば 2+3=5となるような問題文を作りなさい、というもの。
それまで 計算問題は割とスラスラ解けていたし、ひらがなもだいぶ読めるようになってきて
ついこの間まで保育園通ってたのに えらいなぁーよく出来るなぁなんて思っていたのだから
まさかこんな所でつまづくとは、、。
というか もし自分で問題文を作るのが難しかったとて、前のページを見れば
桃が3こ、りんごが6こあります。全部で果物はいくつありますか、みたいな問題がある訳で。
この問題の 個数の部分だけを2+3に入れ替え、あとは そっくりそのままの文章を書いたって良い訳で。
もし先生がそれをガタガタ言うようなら、桃をみかん、リンゴをぶどうに変えてしまえば
文句も言われないと思うのだが
そう伝えても、息子にはイマイチピンとこないらしい。
実は 他にもつまづいた宿題があり、それが
本を読んだ感想を書く、というもの。
因みにこれは 作文と言うほど立派な物ではなく、2〜3行書けば成立するような簡単な感じなのだが
それも出来ないらしい。
感想、という 抽象的な言葉が分かりにくいのだろうかと思い
例えば、こういう部分が面白かった、こういう部分が勉強になった、とか自由に書けば良いんだよと伝えても
固まってしまい 鉛筆が動かなくなってしまう。
もとより、学ぶ は 真似ぶ という言葉が語源となっているというから、
何かを真似する事から創造性が生まれるのだとすれば
やはり 何かを真似する事から始めると良いのだろうか。
今回でいうと、まずは 今ある問題の数字を入れ替えてみましょう、とか
果物を入れ替えて書いてみましょう、とか
感想文も 誰かの感想文を そのままうつさせて、とかになるのだろうか。。
元々 私もそうだが、発達障害あるあるとして
相手が何を意図しているかを読み取れない、相手が何を求めているかが分からない
なんてことは 本当によくある訳で。
国語や算数のテストにおいても、相手が何を答えさせようとしているのかが分からない事がある。
勿論実生活においても。相手が自分に何を求めているのか読み取れず、空気が読めないなんて言われた日にゃあ貴方。自己肯定感バッサリですよ
…というか よく考えたら、なんでついこの間まで保育園にいた子達が こういうの普通に分かるようになってんねん。
むしろそっちのがおかしくない?!感想?ハァ?
感想ってなんですか!!
君は この本を読んでみて、どうおもったかな?
どう感じたかな??
さあ!自由にかいてみよう〜って書いて欲しいわ!
「感想を書きましょう」だけとか、
もうその書き方も冷たいよね!(←え
これが定型発達の子たちのポテンシャルなんだろうか。そもそも 「感想」が何を意味しているか
子供達は教わらずして分かってるもんなの??
皆エリートじゃねぇか
旦那もね、息子にゲームを教える時
普通に Aボタンをダブルクリックみたいな事言うわけですよ。この間ひらがなが読めるようになったような子に対して!
まずAがどれかを教えて、このボタンを2回押すんだよーって
目の前で一回やってみて、それから息子にやらせていただきたい!!
そう!!
全ては、こちらに分かるように書いてない
問 題 文 が 悪 い ! ! ! !
(↑
だってさ、通常クラスに 3人位は
発達障害グレーゾーンの子がいるわけでしょう。
なら はなからその子達にも分かるように説明するべきでしょうよ。(上から目線
いや そういう、つまづいた時に 自力で先生に質問出来る力を子供に身につけさせるのも
学校の目的の一つかもしれないけどさ。
何度も言うけど こないだ保育園通ってたような子に対して色々ハードル高くねっていうね?
間違ってるのは私じゃねぇ世界の方だ!!
差し当たって息子には 何かをそのまま真似する事から教えてみようかな、なんて。
そう思いながら
自由に土砂災害防止に関する絵画をかけという 真似すべき前例の無さそうな宿題を見て白目になるのだった。。。
自由に描く土砂災害防止とは。。。。
この作品募集先が どんな作品を期待しているか よく分からない時点で、
自慢だった私の妄想力も 大した事ねぇな、と思う7月末。。