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鍼灸師 Shuhei Higashi 鍼灸師のブログ

鍼灸師 鍼灸の勉強、言葉、英語学習など備忘録的に使用予定です。

ただ一人の自己

私という人格には2つある。すべての人間と共通する部分と、誰とも異なる一人の部分。その2つの自分は時として同調し、時として対立する。例えば栄養学では理想のカロリーを計算するが、多様な個人にとって最適なカロリーを適応することは不可能に近い。

 

人は死んでいく

ある親子が料亭に行った時の話です。板前さんがいけすから魚を捕りだし半身を落とし頭部を水槽へ戻した。すると半身の魚は白い骨を見せながらひらひらと泳ぎだした。「ほら、泳いでいるでしょう?すごい生命力でしょう?」板前が言うと子供は一言「痛そう」と顔をしかめるのでした。魚は死ぬまで生きているのです。人間の社会では、人間の死は脳死であり医師が判断を下した後の体は物として扱われます。この考えをもって進んでいくと、ますます人間の命の重さや尊さみが感じられなくなっていくのではないだろうか?

 

正しい方言

「方言は国の手形」という言葉があります。都会のきれいな共通語でしゃべるよりも、地元で何千年と命を繋いできた人々の生活を背負い込んだ「方言」を大切にすることは恥ずかしい事ではないでしょう。地方からどんどんと方言が消滅しつつあります。物事をシンプルにしていくことは近代化に不可欠なものでありますが、合理主義を突き詰めることで複雑で多様な日本語の音を痩せさせてしまうのはどうなのでしょうか?一人で生きているのではなく、何千年も前からその土地で生活していた人々の息遣いや目に見えない記憶、そういったものが方言の中に生き続けているのではないでしょうか?

 

人に憂いあり

人間誰にでも心の中に自分だけのもの、他人に明かすことのできない悲しみや痛みがあります。その憂いを言葉で正確に表すのは不可能であり、「いい知れぬ」や「名状しがたい」といった意味はそれを表す深い思いのことで自分を表す「言葉」にはそういった限界が常に存在するのではないでしょうか?

 

なにかを学ぶ上で大事なこと

言葉には、人間の肉声から伝わる言葉と文字から伝わる言葉の2種類があると思います。禅宗において「面授」とは、人から人へ教えを伝えていく方法があります。「面授」では理論と同時にその言葉を発する人間の表情や肉声、息遣いを通じて教えが伝わっていくのです。1つの学問において大事なことは理論だけでなく、人間の「魂」や「情熱」が伝わっていくことではないだろうか?

 

寛容である

 仏教の思想では、人間の体には初めから四百四病が内在するという考え方があり、それが表に現れた状態が病であるとされます。ウイルスに感染しても発症していなければキャリアとして普通に生活できるということです。見方を変えると人間は百パーセント発症する死という病を抱えた病人であるともいえます。障害のある方と健常者を区別することがあるが、百パーセント健常な人(病のない人間)は存在しないのではないでしょうか?

 免疫学では細胞に「寛容(トレランス)」という働きがあることが発見されました。自己と非自己が拒絶しあわず共存していくという働きです。人間が喜び幸せを感じる時に免疫が活性化します。同様に戦闘状態や深い悲しみにあるときにも免疫が活性されます。つまり、人間が感情を思いきり爆発させて喜んだり悲しんだり、涙を流したりすることは生命力を高めることに他ならないのです。西洋ではAと非Aは共存できず否定と肯定の間には対立が存在します。しかし道教でいう「中庸」、免疫でいう寛容を通じて二つの異なった存在が同時に共存することが出来るのではないでしょうか?

 現代社会では生活様式の画一化が進み異論を認めず、順応できない人間を認めないという社会が出来上がりつつあります。日本社会では個性のある人を隔離する傾向があります。そうではなく色々な人がいるミックスな環境を作ることが必要なのではないでしょうか?子供の社会は大人の社会の反映です。子供たちが緊張し異なる意見を受け入れないのは、大人の社会の緊張が伝染するがゆえです。勉強が苦手な子に無理やり勉強させなければ社会の落伍者になると考える。でも案外違う方向で才能が開花するかもしれません。しかし人間には限界があります。そこである程度諦めることも必要です。「あきらめる」の語源は「あきらかにきわめる、つまびらかにする」。つまり出来る限りを尽くしてダメなら次のことを考える寛容さが我々に必要なことなのではないでしょうか?