http://copper-brass.gr.jp/anzen/kyt/kyt07-02-hint.html#hint


みな実際にやっているとは思うけど、KYTはやはり実際自分が危険な目に合わないときついかも。各々の性格や経験も大事で、人目を気にして、あわててしまうタイプはリスクががかなり上がるので、上司だるは、常々部下の人間性を観察して、あまり慌てないようにと釘を指すことが大事だと思う。

聖書ではアダム(男)は永久に畑を耕すことを強いられている。かわりにイブ(女性)は出産の痛みを背負うことになる。


雄雌生物として当然ではあるけどよくできているな。


仏教や神道ではどうなっているのだろう

なんと70年。ほんとにつらい。しかし現実、駆け引きの世界で騙し合い。騙すのがうまい人が勝つ。つまり非論理的思考が論理に勝つ、なんてこともあるかも。永世中立国であるが屈指の軍事国家である矛盾を地で行くスイスを追うべきかも日本も。


たぶんニュースもある程度フィルターはかかっているが、情報は少しでも読み取れる。製作者の意図を見抜く。疑うのに疲れるけどこの作業にだれるとおわり。


仕事でもいっしょかも。


なんでスイスフランはあんな価値があるのかな

十時 連久


摩利支天と称されたほどの猛将で、偵察中に水浴びをしているところを敵兵に発見され、裸のまま敵兵をなぎ倒して帰陣したという伝説がある。朝鮮の役の碧蹄舘の戦いで先陣として功名をあげるが、毒矢を受けて戦死した。



宗茂は軍法についてこう語っている。

  • 「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない」
  • 「大将がいかに采配をとって、ただ“進め”とか“死ね”とか言ってみても、そのような下知に従う者はいない。常々上は下を子のごとく情をかけ、下は上を親のように思うように人を使えば、下知をしなくとも思い通りに動くものだ」
  • 、「例えば、かの上杉謙信公は8千程度の兵を用いて戦をするのが己に適していると言われたそうだ。かく言う自分は経験上2,000程度の兵数が手足の如く操れると感じたものだ。つまり大将の才、能力に適した兵力は大将の数だけあるという事。兵力の大小に固執するより己の武の型を見極め、それに見合った兵を揃えたほうが良い結果が得られるだろう」
  • 「汁かけ飯を食べたい時は、自分で飯に汁をかけるから、余計な事をするな」

陳寔


同郷の中常侍張譲 の父の喪には名士として唯一人弔問し、その為に建寧の獄 を免れた。


妻がディナーを作ってくれました。惣菜と手造りと。いつも感謝です。お酒によく合います。


生春巻きは妻、ローストビーフは僕が作りました。

なんか不足している。生産性や効率の低下を招くらしい。自分の立ち位置が分からなくなるからかな。でも一歩間違ったら負け犬の傷の舐め合い。ただのさぼり。バランスが難しい。


内の上司は決して人をけなさない。短所を指摘しない。長所だけを見て人を褒める。徹底している。なかなかマネできないな。


郭泰は太原郡出身、郭嘉は頴川郡出身。この二人は関連性はないのかな。荀淑 と郭泰は繋がってそうだし、だいたい子孫もつながってたりするもんだけどな。


ウィキより

郭泰はただ人品の長所だけを褒め、欠点を論じることをしなかった。当時、宦官 が政権を握って非難する事が出来なかったためであり、清談 の始めとされる。

おわり


内の上司も清談してたんだ。

どこの組織にも胡広のような一芸に秀でた人はいる。あまり人を侮るといつか自分も足元をすくわれる。陳蕃 がいい例かも。歴史は奥が深い。蔡邕や袁滂も汝南袁氏と違ってそういうタイプだったかも。


ウィキより

第一次党錮の禁

166年司隷校尉李膺 と太学の学生の郭泰賈彪 などからなるいわゆる「清流派」と呼ばれる者達が朝廷に於いて、中常侍 の専横を批判し罪状を告発したが、中常侍たちは逆に「党人どもが朝廷を誹謗した」と訴え、李膺ら清流派党人を逮捕した。逮捕者は豪族達の運動で死罪は免れたものの、終身禁錮の刑に処された。これを第一次党錮の禁という。

第二次党錮の禁

169年、外戚竇武 と清流派党人陳蕃 らが結託して宦官排除を計画し挙兵したが、この挙兵は失敗に終わり竇武は自害した。この乱の加担者や清流派の党人らに対して行われた弾圧を第二次党錮の禁と呼ぶ。


おわり


何進の大将軍時代が第三次党錮の禁みたい感じだったわけね。張讓趙忠 らが曹節、陳蕃 が袁紹な感じかな。何進はある意味だいぶ頑張ったわけだ。そんなに無能でもなかったのかも。