怒りとは人と人を引き離す感情である
カニv(^▽^)vさんのブログ『「世界平和」を少しでも願う人がいるなら、このお話が広まると良いなぁーと思い、リブログさせていただきました☆(*´ω`*)』最近リブログたくさんありがとうございます。広めて頂いてとっても嬉しいです。平和な幸せな考え方が広まるといいなーと思っています。カニv(^▽^)vさん自身は叱られないで育ったという話がありましたね。『田舎っ子なので(笑)、田んぼで遊んで、洋服をどろだらけのびしょぬれにしても(笑)、カニ「(うわーーー!さすがに今日は叱られるかなー?!(汗)(*_*;)」実母「おおーーー!♪よく遊んできたねぇーーー!!(笑)(*^^*)外で体だけはちゃんと洗ってから家に入るんだよ~!☆ヽ(・∀・)ノ」』こういう場合は、怒るお母さんもいるでしょうね。アドラー心理学の育児では怒ったり叱ったりはしない考え方です。よく遊んできたねぇーって笑ってくれるのは嬉しいですね。そして、体を洗ってから家に入ることもちゃんと伝えていて、素敵なお母さんだなぁと思いました。一方、旦那さんは、暴力の躾で育っているため、「躾のための暴力」は肯定している価値観なんですね。『「暴力」なのに、躾として「正当化」されてるのが、ホント怖いところです。。(汗)f』自分が暴力を受けて育ってきて、「それでいまの自分があるんだ」と、考えている人にとっては、暴力は正しいという価値観になるのもわかります。「昔の学校では体罰が当たり前だったけど、いまの時代は体罰したら大問題になるから大変なんだ」と言う人はいます。昔の方がよかったと、体罰を肯定する人もいます。アドラー心理学の視点で言えば、昔は未熟なやり方だったと言えます。いまの時代では「体罰」や「愛のムチ」だろうが否定されています。そういう意味では、我々はいい方向に進化していっていると言えるんじゃないでしょうか。「力」を行使して押さえつける方が楽なんですよね。暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。「力」を行使しない方法は、時にはすごく忍耐がいることもあるかもしれない。だから、安直なコミュニケーション手段を取りたくなってしまうのはあるでしょう。▼果てしない忍耐が本当の愛情「薔薇のない花屋」というドラマで、主人公の父親が、子どもを叱ってしまって後悔している場面があります。 しつけとか、愛のムチとか、そんなの勝手な言い草なんです それで子どもがいい子になる、親の気持ちをわかって・・・・ ありえないですよ そういう風に仮に見えたとしたら それは子どもが怖いから、言うことを聞いたに過ぎないんです 子どもはバカじゃない 親のことが怖いから、聞いたフリをしてるだけなんです 別に納得したわけじゃない 本当に愛情があるんなら話せばいいんです 話して、それでもわからないなら、また話せばいいんです そうやって何度も何度も、わかってくれるまで話せばいいんです そういう果てしない忍耐が、本当の愛情なんです 実際、俺はイラ立ったんです 雫(子ども)に無理やり言うこと聞かせようと思って イラ立って、愛情よりもイラ立ちが勝って、それで… 俺は雫が生まれた時に誓ったんです 絶対に暴力は振るわない 大きな声で叱ったりしない そういうことはしちゃいけないって、俺は誓ったんです それなのに、俺は…俺は…子どもに言うこと聞かせるために、暴力を使ってしまった。安直なコミュニケーションの手段に出てしまった。しつけとか、愛のムチとか、そんなの勝手な言い草なんです▼怒ることと叱ることは同義である【幸せになる勇気 ダイヤモンド社 岸見一郎、古賀史健著】哲人あなたは、生徒たちと言葉でコミュニケーションすることをわずらわしく感じ、手っ取り早く屈服させようとして、叱っている。青年違う!わたしは怒っているのではない、叱っているのです!哲人そう弁明する大人は大勢います。しかし、暴力的な「力」の行使によって相手を押さえつけようとしている事実には、なんら変わりがありません。むしろ「わたしは善いことをしているのだ」との意識があるぶん、悪質だとさえ言えます。青年そうじゃない!いいですか、怒りとは感情を爆発させることであり、冷静な判断ができなくなることです。その意味で叱るときのわたしは、ひとつも感情的になっていません!哲人あるいはそうなのかもしれません。いわば実弾の装填されていない、空包の銃だとおっしゃるのでしょう。しかし、生徒たちにしてみれば、銃口を向けられている事実は同じなのです。そこに装填されたものが実弾であろうとなかろうと、あなたは銃を片手にコミュニケーションをとっているのです。怒りの感情が入ってるかどうかとか、愛情があるかないかとかよりも、暴力的な「力」の行使によって相手を押さえつけようとしている事実ここの問題なんですよね。愛情があれば、子どもの頭に銃を突き付けていいと言えるのでしょうか?これは極端な例えですけどね。子どもに正しいことと悪いことをしっかり教えるために、叱ることは必要なんだという親もいます。正しいことなら「力」を行使して相手を押さえつけても許される。これって戦争する人の考え方なんですよね。例えば、平和を目指す宗教でも、自分たちは正しいことのために戦う。聖なる戦いであるって言って、平和のために戦争するところもある。戦争や暴力など「力」の行使を反対していても、正しいことなら「力」を行使して相手を押さえつけても許されると思っている。親が子どもを叱るのは、親の価値観での正しさを子どもに押し付ける行為とも言えます。叱る親はよく「子どものために」と言いますよね。戦争やる人も「世界のために」と言います。同じ自己中心的な考え方ですが、本人はそうは思っていない。誰かのためにと考えているから、自己中心的とは真逆とさえ思っている人もいるでしょう。哲人が言うように、むしろ「わたしは善いことをしているのだ」との意識があるぶん、悪質だとさえ言えます。カニさんが言うように、「暴力」なのに、躾として「正当化」されてるのが、ホント怖いところです。。(汗)fしつけとか、愛のムチとか、そんなの勝手な言い草なんです。愛情があるからとか、子どものためだからというのも、大人の勝手な言い草。暴力的な「力」の行使によって相手を押さえつけようとしているここが問題なわけです。アドラーは叱る教育の弊害を指摘しています。叱って子どもをいい子にさせたとします。それは、叱られなければ、誰も見てなければ、いい子ではない行動をする価値観を育ててしまう可能がある。「薔薇のない花屋」でわかりやすい話があります。しつけとか、愛のムチとか、そんなの勝手な言い草なんですそれで子どもがいい子になる、親の気持ちをわかって・・・・ありえないですよそういう風に仮に見えたとしたらそれは子どもが怖いから、言うことを聞いたに過ぎないんです子どもはバカじゃない親のことが怖いから、聞いたフリをしてるだけなんです別に納得したわけじゃないここですね。例えば、子どもが悪さして親が叱ったとします。親に叱られるのが怖いから、親の前ではいい子を演じるだけ。親の目の届かないところで、悪さする可能性ありますよね。だって、子ども本人は納得してないんだもん。つまり、「力」の行使によって相手を押さえつけるやり方は効果がない。目の前でいい子になるから、効果があるように見えるだけ。「幸せになる勇気」でいつも叱っている先生の話があります。生徒を叱ることが効果あるのなら、いまでも叱っているのはおかしい、という哲人の指摘があります。一時的に、力で生徒たちを押さえつけているだけの効果しかない。生徒たちは納得はしてないから、しばらく叱られないとまた問題行動を起こす。そしてまた叱ると押さえつけられる。一時的には。それを維持するには、ずっと叱ってなければいけない。全然問題解決になっていないし、子どもたちのためにもなっていない。【幸せになる勇気 ダイヤモンド社 岸見一郎、古賀史健著】哲人叱責を含む「暴力」は、人間としての未熟さを露呈するコミュニケーションである。このことは、子どもたちも十分に理解しています。叱責を受けたとき、暴力的行為への恐怖とは別に、「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が、無意識のうちに働きます。これは、大人たちが思っている以上に大きな問題です。あなたは未熟な人間を「尊敬」することができますか?あるいは暴力的に威嚇してくる相手から、「尊敬」されていることを実感できますか?怒りや暴力を伴うコミュニケーションには、尊敬が存在しない。それどころか軽蔑を招く。叱責が本質的な改善につながらないことは、自明の理なのです。ここからアドラーは、「怒りとは、人と人を引き離す感情である」と語っています。上記の「薔薇のない花屋」のあの場面では、自分を責め続ける主人公に対して、喫茶店のマスターが声をかけます。 もうよせよ お前だって人間だよ 親だって人間だよ 完璧な人間なんているわけねえんだよ やらかしちまうことだってあんだよ 後で謝りゃいいんだよ ちとカッコ悪くてもよ、雫(子ども)に謝ればいい 時にはダメなとこも見せていいんじゃないの それが教育ってもんかもしれねえよ怒ってしまっても、叱ってしまっても、反省すればいいんです。またやってしまっても、また反省すればいいんです。自分を責めてもいいことないので、責めないで反省することが大切です。「怒ったり叱ったりしないことを目指す人前提」の話ですけどね。▼何という習慣にお父さんは取りつかれていたのだろう!「叱ってばかりいる習慣」最後は、叱ってばかりいる習慣のある親にお勧めのお話です。世界の名著といわれる 【「人を動かす」デール・カーネギー著】より。この「父は忘れる」は、ある瞬間の誠実な感情に動かされて書かれてあるものだが、読むものの心を深く動かす佳編として、今では不朽の文章となり、いろいろな場合に引用されて、社会に大きな反響を呼んでいる。父は忘れる リヴィングストン・ラーネッド 坊や、きいておくれ。お前は小さな手に頬をのせ、汗ばんだ額に金髪の巻き毛をくっつけて、安らかに眠っているね。 お父さんは、ひとりで、こっそりお前の部屋にやってきた。 今しがたまで、お父さんは書斎で新聞を読んでいたが、急に、息苦しい悔恨の念にせまられた。罪の意識にさいなまれてお前のそばへやってきたのだ。 お父さんは考えた。これまでわたしはお前にずいぶんつらく当たっていたのだ。 お前が学校へ行く支度をしている最中に、タオルで顔をちょっとなでただけだといって、叱った。靴を磨かないからといって、叱りつけた。また、持ち物を床の上に放り投げたといっては、どなりつけた。 今朝も食事中に小言を言った。食物をこぼすとか、丸呑みにするとか、テーブルに肘をつくとか、パンにバターをつけすぎるとかいって、叱りつけた。 それから、お前は遊びに出かけるし、お父さんは停車場へ行くので、一緒に家を出たが、別れるとき、おまえは振り返って手を振りながら、「お父さん、行っていらっしゃい!」といった。すると、お父さんは、顔をしかめて、「胸を張りなさい!」といった。 同じようなことがまた夕方に繰り返された。 わたしは帰ってくると、お前は地面に膝をついて、ビー玉で遊んでいた。 長靴下は膝のところが穴だらけになっていた。お父さんはお前を家へ追いかえし、友達の前で恥をかかせた。 「靴下は高いのだ。お前が自分で金をもうけて買うんだったら、もっと大切にするはずだ!」 これが、お父さんの口から出た言葉だから、われながら情けない! それから夜になってお父さんが書斎で新聞を読んでいる時、お前は、悲しげな目つきをして、おずおずと部屋に入ってきたね。 うるさそうにわたしが目をあげると、お前は、入口のところで、ためらった。 「何の用だ」とわたしがどなると、お前は何もいわずに、さっとわたしのそばに駆け寄ってきた。 両の手をわたしの首に巻きつけて、わたしに接吻した。 お前の小さな両腕には、神さまがうえつけてくださった愛情がこもっていた。 どんなにないがしろにされても、決して枯れることのない愛情だ。 やがて、お前は、ばたばたと足音をたてて、二階の部屋へ行ってしまった。 ところが、坊や、そのすぐ後で、お父さんは突然なんともいえない不安におそわれ、手にしていた新聞を思わず取り落としたのだ。 何という習慣に、お父さんは、取りつかれていたのだろう! 叱ってばかりいる習慣-まだほんの子供にすぎないお前に、お父さんは何ということをしてきたのだろう! 決してお前を愛していないわけではない。お父さんは、まだ年端もゆかないお前に、無理なことを期待しすぎていたのだ。お前を大人と同列に考えていたのだ。 お前の中には、善良な、立派な、真実なものがいっぱいある。 お前の優しい心根は、ちょうど、山の向こうからひろがってくるあけぼのを見るようだ。 お前がこのお父さんにとびつき、お休みの接吻をした時、そのことが、お父さんにははっきりわかった。ほかのことは問題ではない。 お父さんは、お前に詫びたくて、こうしてひざまずいているのだ。 お父さんとしては、これが、せめてものつぐないだ。 昼間にこういうことを話しても、お前にはわかるまい。だが、明日からは、きっと、よいお父さんになってみせる。 お前と仲よしになって、一緒に遊んだり悲しんだりしよう。小言を言いたくなったら舌をかもう。そして、お前が子供だということを常に忘れないようにしよう。 お父さんはお前を一人前の人間とみなしていたようだ。こうして、あどけない寝顔を見ていると、やはりお前はまだ赤ちゃんだ。 昨日も、お母さんに抱っこされて、肩にもたれかかっていたではないか。お父さんの注文が多すぎたのだ。